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1戦前の北谷

更新日:2016年12月1日

 皆様こんにちは。ただいまご紹介いただきました津嘉山でございます。

 戦後62年の年月を経まして戦争体験の風化ということが今、心配されておりますけれども、北谷町では先程もご紹介ありましたように、町の条例で平和の日を制定されて平和祈念祭を催して、この風化していく戦争体験を次の世代に伝えて、また、その平和に繋がっていくような活動をしていくということで、取り組んでいらっしゃるのは素晴らしい事であります。先程生徒さん達のそういう広島長崎平和学習派遣の体験学習の発表もありましたし、本当にその趣旨が十分に活かされてきているなと実感しました。それから、先程ロビーの方も拝見させて頂きましたけれども、町のそういった趣旨が、やはりだんだん根づいてきているなと強く感じて、本当に嬉しく思っているしだいでございます。

 それから、生徒達がたくさんいますけれども先程平和宣言の中にですね、永井博士の言葉として「己の如く人を愛す」という言葉がありました。これが基本だと思いますね。戦争というのは人の心の中でおこるといいます。いじめは絶対にいけません。人は皆自分それぞれの特性をもって生きる権利ありますのでね、皆さんぜひその事を心にとめてお互いに自由でありたいし、お互いに本当に楽しく生活をしていきたいということですから、その点をぜひ心にとめておいて頂きたいと思います。

 さて、表題にありますように、平和祈念祭の中の体験者の講話という事で、今、前に表示されているのは、「戦前の字北谷と私の戦中戦後体験」という私の講話内容です。この戦時体験者講話は、北谷町において毎年の取り組みとして行われているようです。
 私は、先程ご紹介を頂きました昭和14年生まれですので、昭和20年終戦当時は満6歳なんですね。したがって戦役に従事したとか、そういうことでもありませんから、戦争体験には少し遠いかもしれませんけれども、6歳の私が実際に肌で触れて体験をした戦時中、それから戦後、特に小学校時代頃ですね、その頃の事について私の感じたこと、それから実際に見てきた事その辺をお話して、今日の戦時体験という講話の中味にしたいと思います。

※パワーポイントを使用し映像を説明。

 それで話しの内容ですけれど、今、前にでておりますように戦前の字北谷の様子。それから、私は家族一緒にですけれども、北谷から北部の羽地の方に避難をしました。それから、山の中を越えて東の瀬嵩に抜けて、そして久志を回り宜野座を回り安慶田を回って北谷の方に戻ってまいりました。その間の避難から北谷に戻る迄の話しをしたいと思います。そして、昭和22年に小学校2年生の頃ですけれど、北谷に戻ってまいりまして北玉小学校に入りましたので、その頃の話しをさせて頂きたいというふうに思います。

 それでは、6歳頃の記憶ですので、その記憶の糸をたどりながら、関係のあるその当時の事をいろいろ組み込んで、お話しをした方が解りやすいのかなということで、資料を準備させていただきました。
 それは、北谷町史とか、それから北谷町の教育委員会でお出しになられた北谷町の地名、それから那覇出版社の沖縄県の「学校写真帖」、これは明治大正昭和の学校の写真を集めたものです。それから、同じく那覇出版社の「写真集沖縄」とか、それから沖縄戦、沖縄戦史、さらに沖縄出版から出ている、アメリカ軍が1944年(昭和19年)から1947年まで撮った航空写真の本があります。それから関係のありそうなのをちょっと借用させて頂きました。それを使いながら話しを進ませていただきます。(次お願いします)
 戦前の字北谷の様子をということで、ここでは字北谷の位置とですね昔の屋敷の配置といいますかね、それから私の6歳頃の北谷の様子と、幼い頃の私の生活と思い出というのについてお話しを致します。(次お願いします)
 これは、教育委員会が出された「北谷の地名」から拝借したんですが、ちょっと見にくいんですが、真ん中のこれが国道58号ですね。これが国体道路。それから、こちらが県道24号線でこの辺が謝苅ですね。この下の方が県道130号線ですね。これが北谷三叉路。ここが瑞慶覧ですね。字北谷というのはここの所。それから玉代勢、伝道、という3つの字ですね。この位置にありました。(次お願いします)
 先程の地名ですけれども、現在の北谷の所に昔の字(あざ)を重ね合わせたものです。これが58号で、それから北谷三叉路、それと135号線ですがこのグリーン係の色、青に近いこれが字北谷です。
 これが兼久、それからここが玉代勢、こちらが伝道ですね。これが北谷三箇(ちゃたんさんか)と言っておりまして3つの字ですね、この3つの字は地理的に非常に近いこともありまして、戦前からいろんな行事を一緒にやっておりますが、特に有名なのは北谷のウーンナですね。これは大綱引きで先程話しがあったかと思いますが、干支の寅年に行われる大きな行事で、今年は猪年ですか、ですからまた、子、丑、寅で後3年後には大綱引きということですけれども、この大綱引きは三箇の字でやっております。この辺は軍施設ですね。今ここの重なっている所がちょうど三叉路近くのモータープール、ここがハンビータウンですかね。この大きい建物がサンエーではないかと思います。(次お願いします)
 これは、戦時中の北谷ということですけれども、先程の写真と重ねてもらえばいいんですが、(映像を重ねる)これが北谷ですね。これが兼久で、これが玉代勢とここが伝道ですね。
 ここに見えておりますのが、実は戦前沖縄には、生徒の皆さんにはわからないかと思いますが、軽便鉄道があったんですね。その鉄道がここなんですね。これが北谷駅でこれが桑江の駅だと思います。あと、この辺に旧道があって、まあここの所が元のチャタンターブックヮといわれたところですね。(次お願いします)
 これはですね、上にありますように1944年ですから昭和19年に、米軍が撮った写真なんですね。良く撮れてましてね、このちょっと色のほわっとしたのが、字北谷でここが玉代勢、これが伝道なんですね。実は沖縄本島全域についてこういう写真がありまして、これは飛行機から撮った写真ですけれども、道路とかですね。それから、住宅もわかります。ですから、十分その地理条件を把握した上で、アメリカ軍は沖縄の攻撃にあたったんだというのがこれからも良くわかりますね。(次お願いします)

 それでは、幼い頃の北谷という事で先程ご覧いただいた地図の中から、いわゆる北谷三箇のですね、これは、地籍配図になりますけれども、これをちょっと見ていただきます。この辺が、いわゆる北谷の村内と呼ばれるところですね。ここが兼久で、それから玉代勢、伝道です。この色分けしておりますけれども、これを境にしまして、これがメ-ンダカリですが、これがクシンダカリということで、村の一つの区分けをしまして、先程の大綱引きの時にはこれを境にしまして、こことここに分かれて、綱を引いたようですね。ここにはもちろん桑江とかが加勢しますし、それから下の方には北谷ヌ前とかですね、あるいは伊佐辺りからの加勢があったというふうに聞いております。
 そしてこの辺りがいわゆる北谷の田んぼですね。よく北谷ターブックヮという言葉を聞きますけれども、これはやんばるのですね、国頭の奥間、それから名護近くの羽地、それと北谷でこの3つは、三大ターブックヮというふうに言われるようです。ターブックヮというんですけれども、よく見ますとそんなに面積は広くないんですけれども、いわゆる美田という意味があったんではないかと思います。(次お願いします)
 これが私の小さい頃の、実は生活圏なんです。で私の家はですね津嘉山ですけれども、屋号ではサケーニーって言います。これがサケーニーの屋敷ですね。そしてここを行きますと、ここに大山川と書いてありますが、これは実は私の母の実家です。
 そして、これからこう行ってここに行きますと、これはムラヤーなんですね。ここに私の頃は幼稚園がありました。そしてこれをこう行きますと、ここに北玉小学校。
 そして、こちらのほうに宮城医院という北谷では病院らしい病院はひとつしかありませんでしたが、その医院の位置です。その宮城医院の宮城 調善先生は北中城のご出身ですが、戦前はこちらで病院をやっておられました。戦後は普天間高校の裏のほうに、宮城医院を開設されており、私が琉大に務めてからひょっこり先生のところに訪ねたら、大変びっくりしておられて、いろいろ昔の話しをしてくださいました。

 私の小さい頃はですね、母の実家によく行き来きをしておりました。ですからこの通りを幼稚園に通う頃になりましたら、おやじの弁当箱にですね、小さいおかず箱に弁当つめてもらって、ここからてくてく幼稚園に行って、ここで歌を習ったり皆さんと同じように遊戯を習ったりしました。 その頃、ムラヤーというところに建物があった記憶はないんですが、シーシヤーですね、獅子舞のお獅子を納めて置く倉がありましてね、これがすぐ側にあったもんですから、こわごわのぞいたりしてよく前で遊んでいたものです。
 それから、ここの方にですね、実はサケーニーの畑があったもんですから、サケーニーは私の家の屋号で、小さい頃おじいさんっ子でよく祖父に付いて畑まで行っていたようですね。
 それから戦後になってですけれども、ここの屋敷跡は終戦後の、私が中学校1年の頃まではまだ残ってましてね、屋敷の畑とかあるいは田んぼが使えましたので、その頃はここに母の実家の山川の畑があったんで、こちらにもよく通いました。これはまた後でお話しをします。幼い頃の生活圏というのは、こういうところですが同級生がですね、だいたいここの近くにおりまして、私のすぐ前の方にはアガリーグヮーという家がありまして、ここにも私よりも一つ上のきよ子さんという方がいましたね。それから後ろの方にはチカジャンペーチンがあって、そこにはみつ子さんという同級生がいました。
 それからその一つ後ろの方には、イリチカジャングワァという家があって、そこはひろとも君という同級生、その隣りが久田で久田 ゆうけい、それからずっと上の方にはクェードゥンチがあって、これはひさのりさんという同級生がいましたね。それから母の実家に行く途中には、アガリ山川という屋号があるんですが、ここには、一つ上のこうせいさんという山川 こうせいさんという方がいました。それからちょうどここの入口の所にはアガリーという家があって、ここにはアガリーのひろしさんという先輩ですね。だいたいこういう範囲が、ここだったということが分かりますね。
 それからですね、先程のチャタンターブックヮというのは、この辺にあるんですが、ここの通りがですね、ちょうど小さい水路になっていまして、洪水の時には、これがあふれてしまうんですね。私は、小さい時に姉とか叔母に連れられて実家から家に戻る時に実は足を踏みはずして、川に落ちて溺れかかったんですね。そしたら姉とか叔母達がすぐ父に連絡したもんですから、父は洋服と雨靴をはいたまんま飛びこんで、私を救い出してくれたんですね。そのとき救われてなかったら、今頃どうなっていたかというふうに思いますけれどもね、これも一つの人間の運命ではないかと思います。
 まあ、それと昔はいろんな遊びも勿論ありましたけれども、そのころの遊びといいますと、戦時下ということもあって、新聞紙でかぶとを作ってもらってですね、兵隊ごっこをやったり、それから皆さんユーナンギー(ユウナの木)っていうのをご存知ですよね。ユーナンギーというのは、柔らかいんですけど皮をたたきますと皮がきれいに抜けます。これを刀のさやにして刀を作ってさして遊んでおったりもしました。
 それからかくれんぼですね、こういうのはよくやりました。それから、あの頃は道が舗装されていませんので、雨が降るとぬかるみになるんですがそのぬかるみをすべらかしてですね、そこですべって遊んだりというような事もしておりました。(次お願いします)

 ここでは、避難場所を話したいと思います。先程お話しましたように、北谷の避難地が北部の羽地に指定されたようで、北谷の人達は皆北部に避難されました。私の家族ももちろん北部のほうに避難しました。
 そこで、避難して戦争の中で逃げまわった体験と、それから戦後になって北谷に帰るまでのお話しをここでさせて頂きますが、最初に私の家族がその当時どうだったかというのをお話します。それから、昭和19年10.10空襲の後避難が始まりましたので、その頃の10.10空襲の話しを少しさせて頂きます。
 そのあとは、ごらんのように避難行ですけれども、それでちょうど宜野座辺りの頃ですね、南部の戦線が非常にひどい状態だったと聞いておりますので、その頃南部がどんな状態だったのかということを、資料を使ってご紹介をさせて頂きます。
 それから安慶田に移って、そして北谷に移って来る頃のお話をします。(次お願いします)

 まず、私の家族を紹介します。父は写真が好きで写真をやっていたようですけれども、戦前たくさん写真はあったんでしょうけれども、実は全部焼けてしまいました。残っているのはこれ1つです。これが父でこれが母。抱っこされているのは私です。これが姉です。これは昭和14年です。ですから、今から68年前の写真という事になります。
 終戦当時、昭和20年当時の家族はですね、こちらにあげておりますように祖父のとくしんがこれ。年齢その時が70才ですね。父が大正2年生まれですからその当時32才ぐらいですね。母が25才ですかね。あと姉が3つ上ですので8才から9才になるところですね、私がちょうど昭和20年で満6才になるときでした。弟が2つ下です。その下の弟が2つ下、それからこちらは父の妹達です。2人とも30前後ですかね。
 それから下の方は、父の兄にあたる長男伯父の子供ですから、私とはいとこにあたりますね。従姉妹のお姉さんだいたい二十歳を少し過ぎた頃でした。もちろんその当時ですので祖父は農業ですけれども父は役所に勤めていてですね、母は家にいます。そしておば達が仕事の関係で、那覇のほうで間借りしていたと思います。それから下のほうにいるいとこのお姉さんは、確か読谷の古堅小学校に勤めていましたのでそちらの方に下宿をしておりました。(次お願いします)

 昭和19年の頃からですね、北玉小学校をはじめ、それから村内の多くの家には日本の兵隊さん達が駐留といいますかね、部屋を使っていたんですね。もちろん私の家もそうでして、同じ屋敷の内に2つ家があってですね、一つは比較的に新しい瓦の家でしたので、そこには部隊長さんの大尉さんが宿泊をして、それと小隊長ですかね中尉さんがおられたと聞いております。戦時中の事ですから兵隊さんが威張っていたんでしょうね。そういう時代でした。
 ちょっとその時のエピソードを申し上げますと、こちらに書いてあります弟の連れ去り事件(?)となっておりますけれども、私の下の弟が昭和18年生まれですので、終戦当時満2才になるところですが、軍人さん達が駐留している頃はまだ乳飲み子なんですね。それで姉と叔母が面倒みて遊ばせたんですが、いつのまにか小さい弟がいなくなっちゃったんですね。それっというわけで大騒ぎして担当の兵隊さんに話しをしたら、さっそくその係の兵隊さんが非常呼集という事で、兵隊さんを全部集めてもらったんですね。そしたら、やっぱり一人いらっしゃらないという事で、手分けして捜してみたら弟を連れて、大変子供が好きな兵隊さんだったようですね。あの当時、今の国道58号というのは、ンマイー、いわゆる競馬場ですかね、そういう名前がついていまして、そこに自動車を見せに連れていったんですね。子供をあやしながら見せている間に、すっかり時間を忘れちゃって、それで家で大騒ぎしているのを知らなくて、後で呼び戻されて上官の方から大変お目玉を食らったようですね。当時の事ですから、びんたをはられたかもしれないですね。大変気の毒な事をしたと思います。
 それから、もうひとつ小田一等兵の事というふうにでておりますが、これも非常に忘れない思い出です。北谷に駐留したのそれから山部隊、石部隊というふうに変わっていったんですが、最後の石部隊というのが終戦に近いときの兵隊さん達で、周辺の大人の皆さんに聞いたらタンメー部隊、ご老人と言われていたようです。いわゆるタンメー部隊、年配の兵隊さんがおられたんですけども、その中にですね、先程申し上げましたとおり家には隊長さんがおられたんですね。その食事当番ですね、兵隊では飯上げと言うそうですけど、その食事の当番の方にですね、大阪出身の小田一等兵という方がおられたんですね。なぜこれが記憶に残っているのかといいますとね、実はこの兵隊さんはいわゆる、おならこきというんですかね、方言でいえばヒーヒーラーというんですけどね、歩くたび毎にプップップと音を出すんですね。ところがにおいがありませんので実害はありませんでしたけど、歩調を取って歩くとプップップというもんですから、子供達が非常に面白がってその兵隊さんの後ろについていました。
 また、食事の時に持ってきた時の対応が面白いんですね。映画の二等兵物語で見るように、そっくりそのままです。「小田一等兵食事を持ってまいりました」というんですね。そして隊長さんが「ご苦労」と言いながら、今日のおかずは何かね?とたずねたら何とかかんとかって言うんですね。そうしたら魚がないと、「ん?魚ないのか、魚がなければ、わし飯くわん」と言うんですね。その口調が非常に面白いもんですから、うちの姉などそれをすっかり覚えてしまって、食事の前に「ん?魚がなければわし、飯くわん!」と言ったりして、家族を笑わしていたのを思い出しました。思い出については、まだいろいろありますけれども、これはまた後でお話しをしましょう。

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