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1人間はどうあるべきか。

更新日:2016年12月1日

ただいまご紹介がありました仲本でございます。
 少し私、耳が遠くなっていますんであしからずお願い致します。講話はできる柄でもありませんですけれども、沖縄戦に関係がある体験者の一人として私が体験した範囲の一部分でも話し、皆さんにお聞かせをしますと平和で立派な北谷町ができると思っております。

 終戦になりますと北谷には、早々に平和の塔が作られました。その後で北谷町が同じ苦しみをえた、初めて原子爆弾を投下された広島との交流を行っております。
 私は、広島を見てきましたが、たいへん沖縄以上に苦しかったこともあると思っております。そして、現代までも原爆病が、孫の時代になってまで、一年に5,000人以上の亡くなった方がいらっしゃるというのを、私は新聞で見るたんびに、この戦争のいやさを感じます。戦争のない平和な世界にしたいというんで、北谷町が消防本部向かいの角のほうに、非核宣言の搭を建てております。

 皆さんもご存知のように国民の悪いことをするのは、法律の国家ですから、裁判所で立派な人間にするようにやっておりますけれども、国家というものは裁く何がありませんで、国連というのがせっかくできていますので国が悪いことをした場合は、国連がこれに手を入れましてね、悪い事をさせないようにしてほしいと思います。今度のイラクの問題がありますが、イラクの大儀なき戦争という言葉がよく聞かれます。それもね、大儀なきということも国連がせっかく協議しているのにその途中で戦争したことで言われています。
 結局「穂はあってなきが如し」こういうことでは大変だなーと思いまして、今日本国内でも非常に困っておりますけれど、私は国会を見ましてですね、テレビで見ただけでも危なくなったなーと、世界第二次世界戦が起こった、はじめの気持ちに流れているなーという感じがしました。私は、イラクの住民を見るたびに沖縄戦を思い出すんです。イラクの住民はかわいそうだなーと。
 人間は、動物の頭(かしら)として礼を重んじなければなければならないと信じておりますけれども、現状を見ましたら国内でも皆さんご存知のようにあまり平和はないと、一年間に3万人以上も自殺者が出ていると、これは平和とはいえないと私は思っています。

 私は、沖縄県立農林学校を卒業して最初、県庁林務課に行くつもりでした。あのときもだいぶ今みたいにデフレの時期ですから、就職がなかなかできないなか幸いにいけるようになりました。私は給料を聞きましたら1ヶ月10円と言われました。これでは家族は養えないという事で、その足でもってフィリピンへ行く為に手続きをして、2ヶ月足らずでフィリピンに行きました。
 フィリピンに行きましたが、マニラの首都があり、儲けるために行きましたが、私が行きましたのは最南端ラバオ・ミンダナオ州ラバオに行きました。儲けるため移民として行きましたが、このラバオには沖縄出身の移民がたくさんいるわけです。私は喜んで行きましたが、沖縄以上のデフレですよ。就職ができないんですよ。これは大変だと私は、農林の畑を耕すそういう教育をうけたものの、神戸出身の洋服屋で働きました。そこで働いているうちに、一番いい洋服屋があるよということを友達から聞かされて、それはシナ人が経営する洋服屋に移りました。
 そこで働くようになってから、支那事変(今は日中戦争という)が起こりました。シナ那人の若い連中が、7・8名、私がいる洋服屋に押し寄せてきたんですね。何かと思ったら、戦争への寄付でした。これを国元へ送るという、親父は怒って「君たちはここをなんと思っているのか、日本とシナともし良くない行いがあっても、この移民地までも汚すわけにはいかないと。フィリピンに対してすまんよと」怒った。その言葉で皆逃げてしまったんですね。
 店に入るときも私は、ジャパニーだから白い目で見るんですよね。いい気持ちはしない。それを親父は、私の前にきて「あんた驚いたでしょう。私はあんたも同じ国民と思っている。フィリピンに移民にきているのだから事変があっても移民地までも騒ぐことは、移民地にすまないよと追い返してあるから、気にしないでよね」と言った。「ほんとうにありがとうございます」と喜んで私はお礼をしました。
 ところがなんですか、道を通る人たちはこうやるんですね。シナ人の家から逃げなさいと。家の親父のいう話をそれも知らずに、こんな事をしたら私も気持ちが変になってね、人間はね、人間はどんな悪いものでもいいように引きつけてくるのが人間であって、悪い方へというのはよくない。そういうことで私は、その洋服屋のうでをみがき、昭和7年に沖縄に帰りました。

 さあ、ところが、洋服屋は開業してもお客がいない、なぜかというと沖縄は、芋・裸足というのがありますね。洋服というのがないんです。着物でミニスカートみたいな格好で、男も女もひざを見せているわけですよ。これでは生活ができないなーと思い、また県庁にお願いして林務課に入る事ができました。
 1ヶ月10円で働きました。その途中、沖縄県青年会が青年団服、青年団の洋服を作る人は、これ補助金あげるということができたわけです。私にチャンスがきたナーというわけで、それから県庁を辞めまして洋服屋をさらに経営したわけであります。

 当時、日本は国際連盟に加入しておりましたが、ドイツと脱退してしまった。それに加わったのがイタリーなんですね。日本とドイツ・イタリーが枢軸国(すうじくこく)といって、枢軸(すうじく)というのは上等ですよね。枢軸国(すうじくこく)と言う美しい名前を持って世界と戦争をしてしまった。

 私は、息子が小学校5年のときに疎開させました。北玉校の学童疎開。私は北玉校から「この疎開児童を船に乗せるまで面倒見てくれ」と指示されました。この疎開の話をしに行ったら、あんた方はあの日本郵船の有名な対馬丸、それに乗りなさいということで、喜んで帰りました。
 後日北玉校の疎開児童を連れ、波止場に行くと待ったと、あんたがたは暁空丸(じょうくうまる)に乗りなさい、これには乗るなと責任者から言われ暁空丸に乗船しました。暁空丸は石舟といって使い尽くしてもうこれが最後の航路、大変不安でありました。(※対馬はアメリカの潜水艦により撃沈された)

 その後、捕虜になり収容所へ連れていかれる途中私が見たものは、田んぼの中に腐乱した死体が浮いているもの、殺害され放置されたものなどでした。ほんとにみるにみられないようなむごいありさまばかりでした。その時、ほんとに戦争というのはむごいものだなとつくづく思いました。
 時間の都合上省いているのが多いですが、これで粗末な話はご免させて頂きます。皆さんつまらない私の話を静聴していただきました。大変ありがとうございます。

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総務部 町長室
沖縄県中頭郡北谷町桑江一丁目1番1号
電話:098-936-1234
FAX:098-936-7474

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