更新日:2016年12月1日
沖縄戦につきましては、いろいろな本が出ておりますので皆さんも一度は本を読んだり話を聞いたりしたこともあるだろうと思います。ですから今回は戦争のむごさではなく、その時分の北谷村民がどういう生活をし、村民がどういうことをさせられていたのかそのあたりを、重点的に話をしたいと思います。
日本軍の前線基地が昭和17年ごろから米軍に圧されはじめ、撤収・それから玉砕が始まり、いよいよ沖縄あるいは台湾あたりに米軍が攻めてくるのではないかという昭和19年の3月になって、はじめて北川参謀長の下に創設された大本営直属の第32軍という四師団一旅団が、沖縄守備軍として派遣されました。それに軍属などが加わり、約8万5千~9万人が派遣されたといわれています。8万人~9万人というのは当時の北谷村の人口の4倍でした。それに加え、地元住民の17~45歳までの2万2千人の男性も防衛隊として召集されました。本土から派遣された軍人・軍属と合わせると11万人です。これだけの人数が、急にのりこんできたわけですから兵舎はありません。そこで、小学校や中学校、各字の事務所などが兵舎にされました。また、個人の家でも大きな建物には、旗を立て弾薬を詰めていました。もちろんその間学校の授業はできませんので、青空教室やよその中学校の校庭の木の下で勉強をしていました。沖縄県で学童疎開が始まったのは、米軍の沖縄侵攻直前の昭和19年7月でした。8万人は九州に、2万人は台湾に疎開するということでしたが、なにしろ海にはすでに米軍の潜水艦が配置されていて、対馬丸などもそのときに撃沈されたと記憶しています。
昭和19年の10月10日、その日から米軍による本格的な沖縄侵攻が始まりました。確かその日は月曜日だったと思います。といいますのも、私は昭和19年の4月に中学に入学しまして、垣花(那覇市)という現在の那覇軍港の近くに下宿しておりまして、土曜日・日曜日は実家に帰り月曜日に汽車に乗って那覇まで通っておりました。そして、その10・10空襲のときは那覇行きの上りの汽車に乗っておりましたので、月曜日だったと記憶しております。
当時は現在の国道58号から嘉手納の空軍基地の第一ゲートに入るあたりに、平安山駅という軽便鉄道の駅がございました。平安山駅から私は、多分午前6時40分発の那覇行上り線に乗ったと思います。そこから、現在の桑江中のあたりにあった桑江駅を越え、白比川の鉄橋を少しすぎた所で米軍機により嘉手納基地、それから読谷の飛行場が爆撃されました。爆撃による黒い噴煙と、日本軍による高射砲・機関砲などによる反撃により空一面が真っ黒になっていました。
私たちには、空襲であるという確信がなかったのですが、一応北谷駅で降りて避難しようとしました。しかし、同じ汽車に乗っていた兵隊が「これは日本軍による演習だろう。」というのでまた汽車に乗り込み発車しました。
それから、大山駅の手前でそこに待機していた日本の兵士に止められ、米軍による本格的な空襲が始まったと伝えられ半ばパニック状態で汽車の小さな出入り口から外に逃げ出しました。そして、近くのサトウキビ畑に逃げ込みました。当時中学生だった私は制服の衣替えをしておらず白い夏服で逃げようとしたのですが、機関砲を持っている兵隊から「その白い服をどうにかしろ。それでは敵からすぐに発見されてしまうぞ」といわれ、急いでサトウキビの葉で偽装網(ぎそうもう)を作り、女性のワンピースのように頭からかぶり、なすすべもなく空襲を見ておりました。米軍は爆撃機を4~5派にわけ、嘉手納飛行場・読谷飛行場を攻撃し、慶良間と沖縄本島を行き来していた暁部隊という輸送部隊の木造船を攻撃し、それから那覇の飛行場、与那原そしてまた嘉手納・読谷というように巡回しながら各地を爆撃しました。その数は、延べ1,000機とも1,200機とも言われています。
私のいた大山から那覇を見ますと、那覇の空は真っ赤に染まっており相当な被害が出ているなとわかりました。暁部隊の船も全て沈められ、そのうちの一隻は現在の砂辺リーフに乗り上げていました。この空襲で日本軍は、いままでに住民などを動員して作り上げた軍事施設を破壊され、米軍機に対する備えも失い、那覇港に停泊していた船舶も全て沈められ、那覇市の95パーセントが焼失していました。那覇の西町に積み上げられていた軍の食料が焼失し、兵隊の食料も足りなくなりました。それに伴い、われわれ村民の食糧の配給も少なくなり、1ヶ月に一人当たり米5合の配給、石油は月に1合、当時は那覇以外には電気がありませんでしたので、石油一合というのは、夕食をとる時間だけ火をともしても20日間しか持ちませんでした。マッチは一本も配給がなかったので、婦人会(大日本国防婦人会)などは火を大切にしましょうと呼びかけ、食事のたびに薪をくべ、そして灰をかぶせて火種を次の食事までもたせていました。このような苦しい生活の上に、思想・政治・経済・教育などあらゆる面での厳しい統制がしかれていました。
10・10空襲の後はさらに厳しい攻撃があるだろうということで、本土に疎開しない人などは国頭に避難せよとの指令が32軍司令部から発せられました。北谷村民の避難場所としては、羽地村(現在の名護市)が割り当てられました。それで、村の職員2~3人が先に行き受け入れ態勢を整えていました。しかし、馬車で行こうと思っても軍に徴用されているので使えず歩いていくしかない、さらに食料もない、これから迎える冬の寒さをどうしのぐのか、子供たちを連れて行くわけには行かない。などの理由で多くの村民が避難するのをちゅうちょし、結局北谷に割り当てられた羽地に向かったのはわずかな人でした。
11月頃に私も鉄血勤皇隊に配属されました。近くに兵舎となる学校もなく、首里、那覇にも下宿所の空きもなかったので、上勢頭から大体6里(24キロメートル)ぐらい歩いて通いました。地下足袋も一足しかなく、演習や戦闘のときに履くための大切なものだったので往復の際にはアダン葉で作った草履を履いて歩きました。上勢頭から県道を通りまして、牧港から線路上を歩きそこから識名に行くまでに草履がだめになり、履き替えていましたので一日2~3回は草履を履き替えていました。鉄血勤皇隊では、軍曹が精神棒という棒を持っており、質問に答えられないときにはそれで尻を思い切りたたかれました。尻をたたかれ、その上歩きにくいアダン葉の草履をはいて帰りの24キロを歩くのはとても大変でした。
私は4月2日に米軍につかまり、まず砂辺の収容所に連れて行かれて、それから島袋の収容所に行き宜野座村の福山の収容所に行かされました。福山では特別収容所に入れられました。そこは18~45歳までが入る施設でした。私は16歳だったのですが、当時としては体が大きかったのでそこに入れられました。福山には福山ハイスクールという学校ができ、後に宜野座高校と合併いたしました。
昭和45年の後半から、収容所にいた各市町村の住民たちは少しずつ地元に戻ることが許されたのですが、北谷村だけは、なかなか帰還許可が下りませんでした。村民はそれにしびれをきらし、昭和46年の6月頃だったと思いますが、北谷村に近い中城(現在の北中城)の安谷屋にお願いしてそこにしばらく移ろうじゃないかということで、先遣隊を組み準備を整えようとしたのですが、それはうまくいきませんでした。
そして、1946年10月22日にようやく北谷村の上勢頭の一部、桃原の一部、山内の一部に帰ってもよいという許可が出ました。村民は、10月22日のこの許可に喜び、早速農耕班と建築班とに分けた先遣隊を送り、上勢頭の一部に宿舎を作りやっと北谷の復興が始まりました。翌年の1947年の8月に、国頭からの村民の帰還は一応終了しました。それから12月に嘉手納、1月に謝苅にも帰還許可がおり現在に至ります。