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1沖縄、サイパンの暮らし

更新日:2016年12月1日

 只今、ご紹介頂きました、伊波 興正でございます。
 両親は北谷町北前の出身でございます。両親は大正12年と私は思っていたのですが、よくよく調べてみると、大正11年ではなかったかなぁという確かな資料が出てきましたので、大正11年にサイパンへ渡っております。
 では、サイパンという島は、どこにあるのだろうかというのを、この後でサイパンという島の地名が沢山出てきますので、地図をもって説明をしていきたいと思います。

 ここが現在我々の居る沖縄県でございます。(地図で説明をしています。)これからちょっと南の方に行くと台湾がございます。それから、南の方にいくとフィリピンがあります。南洋群島というのは、とにかくフィリピンの南の方です。
 この地図ではちょっと変形しておりますので、だいたい沖縄県からこの辺におりていきます。だいたい距離にして2千キロ。沖縄から東京までだいたい2千キロ。だいたい沖縄を中心として、サイパンと東京の中間に沖縄があります。それで南洋群島というのは、グアムは大きな米領ですが、グアム島から北の方へ、ロタ・テニアン・サイパン・アナタ半・バガンという島があって、これを現在は北マリアナと言います。グアムからロタ・テニアンを経てサイパンがここにあります。サイパンの島の大きさは122平方キロメートル。宮古島の東にある、東平安名崎という突出た角のようなところがありますが、そこをとって除いたくらいの大きさとみたらよいかと思います。

 これからレジュメにしたがって話を進めていきたいと思います。ではなぜ両親が、サイパンに行ったのかというモチーフ(動機)なんですが、明治から大正、昭和初期にかけて、特に沖縄県は貧乏県で、当時の聞き取り調査をしていきますと、だいたい男の青年で16歳位の青年で、日当弁当持ちで、日雇い日当30銭もらえたそうです。だいたい昭和の7・8年くらいですね。みなさん想像つかないと思いますが、年輩の方だったら、だいたい解ると思います。ただ、30銭というと、昔そば屋が泡瀬の方に、泡瀬そばというのがあったそうです。今も有名ですけども・・・その具志川市宮里の方から稼いだ給料を持って、そばを食べに行くのですが、車はありませんから、だいたい1時間かけて、歩いてそばを食べに行きました。そうすると、そばは2種類ありまして、小さいのが5銭。大きいのが10銭ですね。小さいそばには、三枚肉はのってなくて、かまぼこ一切れがのっているのが5銭。そして三枚肉とかまぼこがのっているのが10銭だったそうです。当時ですからどうしても、三枚肉の入ったそばを食べたくて、宮里から今の中部病院あたりから、だいたい一時間くらいかけて泡瀬まで。夜の道を歩いていって、泡瀬に着くとどうしても三枚肉の入ったそばを食べたいのですが、1日の日当をもらった30銭ですね、その10銭のそばを食べると、残りは20銭になります。いつ、また仕事があるか分かりませんから、どうしても出きるだけ多く手にもっておきたい。結局、1時間かけてそば屋まで行って食べたそばは5銭のそばで、残りの25銭は、およそ1週間持たなきゃいけなかったみたいですね。そのくらい、沖縄の一般の農民の生活というのは非常に厳しかった。

 それから、子供というのはもちろん学校に行かないといけませんが、学校に行っても、勉強はせずに、どこに行ったらヤギの草が刈れるか、どこに行ったら牛の草があるのか、友達同士で情報交換をしながら、それで学校を1時間、2時間すると抜け出して、ヤギの草を刈りに行ったり、牛の草を刈りに行ったりして、勉強は二の次あるいは、三の次で勉強はしなくても良いという状況であったそうです。

 そのころ、南洋群島移民が流行ってきます。特にサイパンを中心に、話しを進めていきます。サイパンに行くと、そのときのサイパンでの日当が1円10銭だったそうです。沖縄の約3倍ですか。一日弁当をもって、朝から晩まで働かされて30銭だったのが、サイパンに行くとだいたい1円10銭くらいもらえたと・・・。そういうことで、我もわれもとサイパン・テニアン・南洋群島へ移民に行くわけです。貧しい家庭ですから、どうしても借金というのがあるわけですから、特に、今日は高校生のみなさん、たくさんいらしておりますけれども、当時はとにかく男の子は、丁稚奉公に行かされたわけです。借金のかたを担ぐために、利息だけを稼ぐために、お金を借りた主の所へ、泊り込みで丁稚奉公に行くわけです。そして、1年内し2年、長いことになると3年・5年くらい。方言で「イリチリー」と言うわけです。丁稚奉公で行く。そうすると、家に帰れるのはお盆と正月。当時のお正月は旧正ですから、お盆と旧正月の2回だけ、家に帰してもらったそうです。その丁稚奉公で行った子供の手間というのは、お給料(お給金)というのは、年間でだいたい7円くらいですね。7円くらいもらえたそうです。丁稚奉公で行っている家庭で何をしたかというと、やはり牛の草を刈ったり、ヤギの草を刈ったり、あるいは豚を養ったり、あるいは農作業をしたり、そこの家の仕事をやって、その利息だけを払ってきたとのことです。
 それだけではなくて、特に女の子は、遊郭に売られたわけです。どうしても、生活が出来ないものですから、那覇の辻あたりに売り飛ばしていたと・・・そういう状況ですから、サイパンに行ける、あるいは行けたという事は、一つのある一面をみると幸せであったというふうに語っております。

 それから、サイパンとか南洋群島に行ったもう一つの理由が、徴兵忌避(ちょうへいきひ)です。今は日本に軍隊はありませんから、心配はありませんが、戦前は徴兵義務があって、沖縄に居るとどうしても兵役に服しなくてはいけない。沖縄の人はもともと戦争があまり好きじゃないですから、いろんな仮病を使って、例えば、懲兵検査前になると、醤油をたくさん飲んで体をこわして、徴兵検査に不合格するというように、兵隊に行かなくても済むとかですね。あるいは石油を飲んで、下痢状態を起して、徴兵検査を免れるとか。そういうことをしてまで徴兵検査を免れた、兵役を免れたということがありますが、特に、旧日本軍の兵役法というのがありまして、そのなかでは、学校に行っている生徒、学生ですね。学生と外国に行っている、あるいは国外に行っている人は、徴兵の猶予がもうけられていて、兵隊に行かなくても済んだという利点があったわけですね。沖縄からは、貧乏を解消したいということと、兵隊に行きたくないという徴兵忌避ですね。そのようなことから、我もわれもと南洋群島に飛んでいったというのが、私の結論でございます。

 そして、もう一つの大きな理由は、当時からハワイに出稼ぎに行った人が、ハワイで儲けてきて土地や畑・田んぼを買って、瓦ヤーを作って、周囲の羨望の的になったという過程があるんですね。ですから昔の人たちはサイパン、南洋群島に行って、何とか金をもうけてきて、土地や畑・田んぼを買って、それで瓦ヤーを作って立身をしたいというひとつの夢がありました。ほとんどの人が夢を持って行ったということです。具志川、今のうるま市から南洋に行った一人の青年が、彼は長男なんですが、この長男は親がどうしても許してくれない。おまえが南洋に行ったら、私はどうするか?と親がどうしても許してくれなかった。この親は、一つの欠点があったそうです。昔の沖縄の人の楽しみと言うと、田舎では闘牛ですね!闘牛が非常に盛んだったそうで、2・3年でお金を儲けてきて、必ずこの闘牛を買って帰るから行かせてくれという事で、親をうまく口説いて南洋に行くわけです。そして戦後帰ってくるわけですけれども、帰ってきた息子に親は、「だー、牛はちゃーなたが?(牛はどうなったのか?)」と言って聞いた。息子は「艦砲にうちくゎれた(艦砲で全て無くなった)」といって、これ実話ですが、こういう笑い話もあります。 そういうことで、我も我々もということで皆サイパン・テニアン・南洋群島へ行ったんですね。

 私の父は樽金(たるかね)というのですが、母はカナシと言います。伊波 樽金はサイパンに行ったら、子供がドンドンドンドン生まれます。それで私の兄弟は10名になりました。10名になりますと、父は大工をしていたのですが、とにかく大工だけでは、飯が食えないという状況にあったんじゃないかなぁと思います。それで父は、後でサイパンで牛に引かせる牛車というのがあります。サイパンの島民の言葉で「カレーター」と言いますが、このカレーター作りを始めて、そして一攫千金を狙ったと思いますが、大量の赤木の原木を輸入しまして、庭にたくさん積まれていました。私がものを覚える頃から、カレーター作りを始めたのですが、カレーターも作ったら、2・3年では更新しない、ひょっとしたら5・6年も持ちます。だから注文がないわけです。注文がないわけですから、輸入した原木の代金は相当かさんだみたいです。それで、家は本当に火の車で、サイパンにはパンの実というのがあるのですが、明けても暮れてもパンの実だけですね。朝・昼・晩とパンの実だけを食べさせられて生活するんです。

 父も母もそういう貧しい生活の中で、父は大工のカレーターの制作を止めて、畑に専任するんです。母は畑だけではとても間に合いませんから、毎朝午前3時頃から起きて、豆腐作りをして、そして子供たちが学校へ行く時間、つまり7時頃までには豆腐を売って帰ってくる。それを毎日繰り返すわけです。そういう生活の中で、我々子供というのはどうしたのかというと、全員にひとつの担当があって、僕は牛の草刈りとヤギの草刈り、父の友達が豚を飼って何とかしのいでくれということで、豚を1匹だったのか2匹だったか子豚を持ってきてくれたんです。この豚を育てていくうちに、豚が10頭から20頭とあっという間にドンドン増えていくわけです。豚という動物は非常に不清潔に思うかもしれませんが、実はとても清潔なんですね!僕はこの豚の、豚小屋の掃除と豚を水浴びさせる役目と山羊の草、牛の草刈りというたくさんのものを持つわけです。皆さん今はペットを飼っていらっしゃるかと思いますが、特に家で犬を飼っていたらご存知かと思いますが、犬を浴びせると水払いしますね!体をバァっと左右にふるわせて水払いしますね。豚を浴びせていると、とにかく豚小屋ですからフンがたくさんありますよ!豚を浴びせていると豚も水払いするんですね!
 水をバババと払うんです。その跳ねた水が全部自分にかぶさるのです。そういう生活が毎日続くわけです。それでも、そういう生活の中にも、子供は子供としての遊びがあって特に学校帰りは・・・。

 今は、みんなアスファルトでコンクリートですから、草は生えてませんよね。だから、皆さんがどんなに道草をくいたくても、草がないから道草くえないですよね!我々サイパンでは、どこに行っても草があって、道を通ると道草をくうわけです。学校帰りには、楽しみがありまして、3つのコースがあって、サイパンの南にフィナシスという山がありまして、フィナシスコースを渡っていくと、そこには、野生のマクワウリといって甘い瓜があるんです。メロンよりももっと甘い瓜がたくさん野生ではえています。あるいはキビ畑にスイカとかメロンとか。それが農作業している人たちが、スイカを食べたり、メロンを食べたりすると種をだしますよね。その出した種が生えて実をたくさんつける。そういうキビ畑に入って、スイカを食べたり、或いは路傍(ろぼう)のマクワウリを食べたりして空腹をしのぐ。

 もう一つは、製糖工場があって、その裏通りを行くと、製糖工場が取水している用水路があって、そこには皆さん今は非常に不幸な時代で、申し訳ないんですが、昔は沖縄にも田んぼに小さい白い海老がいました。学名イサザアミといいます。アミの一種で、生きたまま口に放り込むと、口の中で踊るわけです。そういうのを取ってまた空腹をしのぐわけです。それからまた、海岸コースといってリーフを行くと、シャコ貝とかがたくさんあるものですから、そのシャコ貝を取って食べて空腹をしのぐとか。そういう道草をくって帰る楽しみもありました。これがだいたいサイパンです。

 そういう平和なサイパンにも、昭和16年というとちょうど第二次世界大戦が、日米開戦が始まった12月ですが、私はたまたま牛の草を刈りに湿地帯の方へ行ってました。そしたら日本の飛行機が何十機と編隊を組んで南のほうへ飛んで行くんですね。その轟音というのがもう聞いたことがなくてですね、それで地球も揺るがすぐらいの轟音で、私自身が臆病でしたから驚きおののいて、とにかく刈った草も持たずに大急ぎで家の中に飛び込んでいった覚えがあります。それからというものが、もうサイパンには平和というものがほとんどなくなってきました。で道草もくえない。私はちょうど18年の3月に当時国民学校といいまして、6年生から高等1年・2年というふうに行ってそこを卒業して、サイパンでは上の学校はサイパン実業専門学校というのがあって、農業と商業の専門学校が2つありました。そこへ行くしか中学というのはないんですね。そこへ受験しました。勉強してないからとおるはずはないんです。みごとポットンしました。

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