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3終戦直後の学校について

更新日:2016年12月1日

 これはですね、終戦直後の民家教室と青空学級ですね。上の方は民家を使っての学校、それから下の方はいわゆる青空教室ということで、木の影とかですね、あるいは広場の隅の方で、学校の先生だった人達がですね、さっそく生徒達を集めて、授業といいますか、授業といえるほどの教材は無かったでしょうから、集まって歌を歌ったり、お遊戯をしたりということが行われたようですね。(次お願いします)
 これは青空教室ですが、安慶田での私が1年生の頃、ちょうどこんな状態でした。女の先生又吉 ツル先生が担任でしたけれども、裏のですね、昔のウガンジュ(拝所)みたいな所だったと思うんですが、そこの木の下に皆を集めてですね、歌とか遊戯を教えてもらいました。(次お願いします) これが終戦直後の、いわいる掘っ建て小屋っていいますかね、馬小屋校舎などと言われた教室で、これは北部の羽地村の小学校付近ですが、こういう建物が最初の頃の小学校の校舎だったんですね。(次お願いします)

 先程お話しましたように、居住区からの移動の禁止が続いたんですが、そろそろこの頃からは、移動が認められるようになりまして、私の家族あるいは近くの北谷の皆さんも隊列を組んでですね、北谷迄こんな状態で行き来をしていたようですね。もちろん南部の方は、戦災がひどくて畑どころではありませんので、だいたい中部から北のほうです。これは名護の羽地の近くのようです。(次お願いします)
 北谷の皆さんは具志川のですね、メーバル(前原)ですか、マースヤー(塩屋)と言っているようですが、ここにもいっぱいおられたようですが、これはその地区での農作業のようですね。(パワーポイント次お願いします)

 先程お話しをした戦災孤児ですね、この人達は行く場所がありませんので、慈善団体だったんでしょうけども、教会の牧師さんとかですね、そういう人達が中心になりまして孤児の収容所を作っていて、その当時石嶺ですかね、首里の石嶺の厚生園ってのがありまして、この写真はその頃の写真のようです。(次お願いします)

 これは遊びですね。子供は、遊びの天才といいますけれども、これは右側のほうはですね、ちょっと車が付いていますけれども、これはキャリーですかね。重い荷物を転がすためのコロが付いたのがありますが、そのコロを取り外して、車の車輪にしていますね。それから同じようにこの辺を、ハンドルをつけた自家製の車を作ってまして、これに乗って遊んでおります。この帽子ですね、これは米軍の作業帽で、これは兵隊のフニグヮ-(舟小)帽子と言ってますね。舟のような形をしておりますねフニグヮ-帽子といったんですね。こういうのをやってました。それから手製のコマを作ったり、それから凧あげですね。そいうようなこともやってました。(次お願いします)

 これはですね沖縄市の嘉間良(かまら)です。ここはですね終戦の時、行政のいろんな機関が集まった所のようでして、北谷村もそれから読谷村、それとその当時は越来村といってましたけど、その越来村の役所がやはりここにあったようです。

 こちらは兵隊の宿舎で、ずっと奥にちょっと見えますが、ここがまた戦災で亡くなった人達の墓地だったようですね。(次お願いします)
 安慶田からですね、北谷のほうに移ってきますけれども、昭和21年の10月22日ですね。先程、町長さんのご挨拶の中にもありましたように、この嘉間良からですね、北谷のウフモーの方に役所が移たっていいますかね、入居が許可になったそうです。ということで役場が桃原に移ってきて、そして同時に先遣隊っていいますかね、建物を建てて、住宅を準備しないといけませんので、その先遣隊の皆さんが北谷の限られた内の桃原地区ですが、そこに入って家作りを始めていたということですね。私の居ました安慶田地区にも北谷の人が沢山いましたけれども、そろそろ北谷が入れるようになったということで、北谷の皆さんが移動始めておりましたので、私の家族も昭和22年の9月ですね、私は小学校の2年の2学期です。北谷の謝苅の3区2班の方に移ってきました。(次お願いします)

 ここからは、謝苅での小学校の話しになりますが、2年生の2学期に移ってきましてですね、2学期から北玉小学校に転入しました。最初の2年生の担任の先生が金良 敏子先生ですね。今は結婚されて島袋 としこ先生。それから3年生が宮里 朝吉先生の奥さん小夜子先生、小夜子先生がお産でしたのでその後、前の教育長の真栄城 兼徳先生の妹さんの文子先生に代わりましたね。それから4年が當山 スミ子先生、5年が比嘉(山内) 正行先生、6年生は玉城 真達先生ということで、担任の先生方は今現在、ご高齢ですけれどもご健在です。
 当時の校舎といいますと、先程みていただいた茅葺きの校舎と記録によりますと北玉小学校は26年ですか、26年の5月にテント3張りから始まったと書いてありますので、後でちょっと写真見てもらいますが、大きなテントが最初の校舎だっただろうと思います。私達が移ってきた頃もですね、茅葺きの校舎とテント小屋を使っていた記憶があります。その頃ですね、今の北玉小学校っていうのは、ちょっと小高い森になってまして、あまり平坦な場所がないんですね。それで米軍に頼んでブルドーザーを貸して貰ってですね、整地作業をして校地を広げていって、今のような北玉小学校の校舎が作られていて、その後がどんどん変わっていきますが、そのたびにですね、2、3年生でも全員いわゆる整地作業にですね、かり出されておりましたね。作業を皆一生懸命やりました。
 それから、3年生ぐらいの時にですね、コンセットっていいますかね、これはかまぼこ型のトタン葺きの兵舎に使っていたものですが、これを校舎にしていますね。そして、その校舎がいわいる茅葺きの校舎よりはいいんですけれども、実は台風にやられましてね、そのころ非常に強い台風が沖縄を襲っておりまして、確か昭和24年になりますかね、私が小学校4年生頃だったと思いますが、グロリア台風だったと思います。これでコンセットが全部壊れてしまって、そのために校舎が使えないもんですから、例えば午前中は1、2年生3年生、午後からは4年生以上と、これは2部授業といっておりました。朝は低学年、昼後は高学年、そういう授業をしばらく続けていたのを覚えています。

 4年生の頃からですね、やっと本建築の瓦葺きの建物ができまして、北玉小学校は確か3棟ですね、建っていました。上級生の6年生5年生4年生までが確かこの瓦葺きの校舎に入ったように記憶しております。もちろん当時のことですから、テント小屋とかですね、それから茅葺きの校舎の時は皆裸足です。裸足で行っておりましたので、特に下は床があるわけではなかったんですね。ところが、この本建築の瓦葺きになりますと、床が張られているもんですから裸足で入れないんですね。それで皆靴を履くという事になったんですが、靴が無かったもんですから、例のウチナーサバですかね、ぞうりで、これをはいて、生徒達は学校に来ていたのを覚えています。(次お願いします)

 5年生の頃になってですね、アメリカ軍の方から、セメントの払い下げを受けました。これはバラのセメントだったもんですから、確か5年生6年生と職員ですね、全員でトラックに積んできて、校舎の方に全部ぶち込んじゃったんですね。そのセメントを使ってブロックを作って、そのブロックで職員室を作ったという記憶があります。それが小学校の私達5年生の頃でした。

 それから、その当時の運動会はですね、今と違いまして地域の一大娯楽だったんですね。ですから小学校の運動会ながらですね、青年会の競技も当然入ってきておりまして、それこそ村を挙げての競技大会ですね。そして応援団やらも非常に活発っていいますかね、にぎやかな応援をしていましたね。それを皆さん特に年輩の皆さんはよく覚えていると思いますね。そのころ運動会では、上級生5年6年生だったと思いますけれども、必ずやるのが「校歌ダンス」と「緑の山河」という日教組の組合歌ですかね「戦い終えて・・・」というのがありましたね。それとそのころの校歌というのは、これはその当時の校長、真栄城 兼徳先生のお父さん兼良先生がお作りになって、教頭先生の片岡先生が作曲をされた校歌でしたね。
(歌)「戦い越えて 立ち上がる」という歌を、覚えておられる方もいると思いますが、この校歌で、この校歌に振り付けしたダンスと、それから先程お話しをした、緑の山河のダンスですね、5、6年生が必ずこれをやることになってまして、運動会では定番になってました。それから学芸会も当時は、娯楽が無いもんですから活発でして、多分私達の学年の1年上からだったんじゃないかと思いますけれども、6年生と先生方の合同劇をやってました。私達の一年先輩のほうは、確か「運命の鐘」という劇をやってましたね。その時の主役の方が浦崎 直義さんですね。これは後に北谷の郵便局長さんをされた方。それから堀川 泰治さんが、それこそ名演で活躍をされました。私達の時には有名な「鐘の鳴る丘」をやりましてね、復員の兵隊さん、確か松島 良榮先生がおやりになったかと思いますね。私も修吉というちょうど戦災孤児の役をやったのを覚えております。でも非常にその頃が懐かしく思い出されます。そういうことがありましてね、学芸会等も相当皆張り込んでやったのを覚えております。

 それから、子供たちの遊びにどういうものがあったかといいますと、そこに書いてありますように、おしだしとか縄跳びですね。おしだしが男の子で、女の子達は縄跳びとかゴムとびをやってました。家に帰ってくるとパッチー(めんこ)ですね、これは何と言うんですかね、俳優さんの絵の付いたような丸いパッチーをですね、当てっこやる遊びで、それからビー玉ですね。玉ちゃんぐぁーと言っておりましたけど、ビー玉それからマタイ棒ですね。これも覚えている人はもうそうとう年輩だと思いますけれども、そういう遊びが皆さん一生懸命やった遊びです。(次お願いします)
 一般の人達はどうだったかといいますと、この頃からですね、いわゆる配給制度がだいぶ普及をしてきまして、いわゆる配給所というのが各地区にあってですね、そこで主食だとか、あるいは生活必需品等は、まあこれ有価ですけれども、あの頃はB軍票ですかね、まだ今のようなドルとか日本円ではありませんでした。B軍票だったと思いますが、いろんな物が配給所、後に売店という名前に変わりましたけれども、そういうところで買うことができました。

 それから北谷の方もですね、先程ご覧頂いた北谷の旧屋敷と、それからイリムティーバル(西表原)という、今でいいますと、ハンビータウンの三叉路に近い辺りですかね、その辺の畑が使えましたし、それから兼久といいまして、南側の方の畑も使えましたので、あの頃からは皆さん、軍作業に行っていましたけれども、軍作業の傍らその自分の旧屋敷とか、あるいは畑に通ってですね、稲を作ったり、それから芋を作ったりしておりました。私達も小学校の頃から、そういう農作業の手伝いにかり出されまして、雨が降りますと増産休みといわれてですね、学校が急きょ休みになって、畑の作業にかり出されました。たぶん覚えていらっしゃる方は多いんではないでしょうか。そしてその頃は、ララの贈り物というのが、アメリカの本土の方の慈善団体から届いてまして、それにはいろんなのが配られたんですが、くじ引きで当ったんですが私の家はですね、たまたま大きな山羊を当たったんですね。山羊はやっぱり草を食べますね。毎日草をやらないといけないんですけど、3年生か4年生頃だったと思いますけれども、この草刈りの役目は私の役目でしたので、友達と一緒に学校終わったら毎日、今の北谷の方迄行ってですね、草をいっぱい刈りてですね、山羊に与えておりました。そういう生活をやってきております。(次お願いします)

 先程お話しをしたテント小屋ですね、これが先程お話した最初の頃のテントが確かこんな状態だったんじゃないかなと思います。あの頃まだ小さいですので、記憶が確かではありませんですけれども、こういうテント小屋とそれと茅葺きの校舎だったように思います。(次お願いします)

 これがコンセットですね、コンセプトと書いてありますけれども、資料ではこう書いてあるんですけれども、私の頃はコンセットと言っておりましたね。皆さんもおそらくコンセットだと思います。この骨組みにですね、上のほうにこうトタンを貼り付けて中にいろんな机やら黒板やら入れて教室として使っておりました。(次お願いします)

 これはですね先程お話しをした、私達4年生の頃にできた瓦葺きの校舎なんですが、北玉小学校のは見あたりませんけれども、これと同じ頃にできた53年ですから、昭和28年頃なりますかね。これが北谷中学校の4つの瓦葺きの校舎ができたのを覚えております。(次お願いします)

 実はこれはですね、先程紹介をしました学校写真帖という本に入っていたんですが、学校写真帖の中には、北谷小学校というふうにでておるんですが、これは北玉小学校でして、撮られたのはライカムなんですね。ライカムの方向から撮ってるようでして、真っ赤に見えるのが北玉小学校で、今お話したこれ瓦屋根の校舎がここ、こちらに縦方向に一つありますかね。そして、ここに白く見えているのが映画館ですね。北宝館という映画館ができてましてそれであります。北側の方には桑江地区が見えますし、それからここのほうに水タンクがあります。これも小さい時よく遊んだ場所ですね。こんな状態で謝苅の方の建物もだんだん瓦の屋根等もでるようになったころです。1952年頃になりますかね、これが北玉小学校の様子です。(次お願いします)

 これは標準家屋というふうにいわれておりまして、終戦直後ですね、いわいる民政府等の計らいで、住宅が無いと困るということで、沖縄の各地区に盛んに建てられた建物で、アメリカの木材トゥーバイフォーですね、これ2インチ×4インチの断面をもつ建材ですけど、それを使ってさっと建てるような建物で、大きさはですね、たしか2間に2間半だったと思います。町長さんそうですか?覚えてらっしゃいますか?年輩の方は覚えているかもしれませんが、そういうものにですね、上の方にはテントですね、これをかけておりました。もちろん謝苅のですね、今の斜面になっている辺りには、こういう建物がいっぱい建っていたんですけれども、例の49年のグロリア台風で、これが軒並み全部やられましてね、その後建て替えをしたり、それから茅葺とかトタンの家に変わったのであります。(次お願いします)

 これが、終戦初期の謝苅と書いてあります。たぶんこれがジャーガルビラ(謝苅坂)で、後ろの山からしますと小学校の方から上がって行く道だと思います。やはり茅葺の家とかあるいはトタン屋根の家ですね。こういうのが目にすることができます。(次お願いします)

 これは、実は私の写真スナップで小学校の4年生ですね。このしかめ面をしているのが私です。私が4年生、弟が2年生、これも弟で1年生にはまだ上がっていなかったですかね。これは叔母です(次お願いします)

 これがその当時の6年生の写真で、ここに座っているのが私です。それから祖母、弟、それから母、弟、姉、こちらの二人が叔母です。帽子をかぶっておりますけれども、6年生の頃にはこんな格好をしておりました。祖母と母は非常にしかめ面をしておりますけれども、実はこの写真を撮る時に弟と妹が場所とりで、せり合っているもんですから、それをたしなめていたんですね。写真屋さんはそれに気付かずに、写真を撮ってしまいました。ということでしかめ面らをしておりますけれども、母も祖母も大変やさしいお母さんおばあさんでした。笑顔の写真があればよかったですがね。しかし、これしか残っておりません。(次お願いします)

 これは、私の2年後輩の、私の弟の同級生の写真で、ここに皆さんご存知でしょうか、金城 永眞(ひさまさ)先生。北谷高校の教頭、後に北中城、那覇高校の校長をされた先生ですね。が写っております。その同級生達です。帽子を見てください。帽子がいろいろ面白くてですね、こういう学生帽があるかと思いますと、こういう戦闘用のような帽子があったり、またちょっと変わった、今でいうゴルフ帽を被っている人もいますね。その当時の様子がよくわかるような写真です。(次お願いします)

 これは、北玉小学校卒業の時の写真です。真中のこちらが、前の教育長の真栄城 兼徳先生のお父さんの真栄城 兼良校長先生。それからその右側が、片岡 宗徳教頭先生。それからその左側が、私の担任の玉城 真達先生。じゃ私はどこにいるんでしょう。ちょっとわからないんですがこの辺かなぁと思ったら、ここにいました。これが私です。
 それから、前教育長の金城 至佑先生が、この中にいるはずなんですが、この辺かな、ここですね。こちらが金城 至佑先生の小学校の頃の様子です。
 後ろの方に見えるのが、これはライカムと言ってましたね。将校クラブがあって、それからこの後ろの建物が、先程ご紹介した生徒、職員で払い下げをもらってきたセメントを、ブロックにして作った職員室です。(次お願いします)

 今、お話しをしてきたんですけども、やはり平和というのはですね、誰にとっても望ましいことではあるんですけども、平和というのは、なかなか人まかせでは実現しないんですね。やはり皆が当事者であるという気持ちをもって努力をしないと、平和というのは達成できません。私達人間はなかなか過去の経験を生かせない、愚かな生き物とよく言われますけれども、でも、すべての生き物の中で過去の経験を、教訓として活かす事ができるのは、人間だけだとよく言われます。
 そいう意味で、沖縄戦の経験というのは私達にとっては、いわいる平和を築いていく礎(いしじ)ですね、礎(いしずえ)として、それを不動のものにしていく大事な教訓だと私は思います。ですから私達は、この教訓を自分達の子孫あるいは国内だけでなくて、世界の皆さんに伝えていく大きな役割を担っているんだというふうに思います。ですから戦争体験の風化といいますけれども、そうさせないようにですね、普段からやはり体験を、世代間に語りついでいくという大事な仕事を忘れてはならないというふうに思います。(次お願いします)
 ということでですね、実は歌は世につれといいましたけれども、今でているのは「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」ということで、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、これがですね、実は終戦の頃20代位の人達の一つの生涯体験をしているだろうと思いますね。

 生徒の皆さんは、たぶん方言はあんまり知らないと思いますから、ご存じないと思いますが、この歌ちょっとコミックソングに聞こえますけれども、実は非常にシビアな内容が吹き込まれまして、特に4番のほうにですね、「平和なてぃから幾年か 子ぬ達んまぎさなてぃうしが 射ーやんらったる山猪(やましし)ぬ 我が子思ゆる如に潮水またとんで思れー 夜のゆながたにんららん」というんですね。戦争体験の厳しい中をくぐりぬけて、子ども達も育ってきたんだけど、どうも最近、また同じような過ちをするんではないかという、不安があってなかなか夜も眠れないというような意味ですね。どうも今、最近の世相を見てみますと、どうもこれに近いんじゃないかと感じがしてますね。非常に大切な国民投票法案だとか、教育基本法等もですね、それほど論議もされないうちに、いつのまにかできあがってしまうし、改定されてしまう。こいう状況を見てみますと、この「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」の歌詞をですね、あらためて見直す必要があるんではないかという風に、私は最近つよく感じております。ということで、またサンシンをちょっと持ち出してですね、この「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」を紹介したんですがよろしいでしょうか。ちょっと時間過ぎてますけれども、よろしいですか?

 ちょっと失礼をして

※歌・三線 『艦砲ぬ喰ぇーぬくさー』(艦砲の喰い残し)

 若さる時ねー 戦さぬ世

 若さる花ん咲ちゆーさん 若さる花ん咲ちゆーさん

 家ん元祖ん親兄弟ん

 艦砲射撃ぬ的になて

 ち(着)る物食え物 むる無らん

 スーティーチャー食で 暮らちゃんや

 うんじゅ(貴方)ん わん(我)にん いや(汝)ん わん(我)にん

 艦砲ぬ喰ぇーぬくさー

 平和なてぃから幾年か

 子ぬちゃん(達)んまぎさなてぃ居しが 

 子ぬちゃん(達)んまぎさなてぃ居しが

 射―やんらったる山猪ぬ 我が子おもゆるごとに

 うすみじ(潮水)またとんでぃうむれー

 夜ぬゆながた みーくふぁ(眼醒)ゆさ

 うんじゅ(貴方)ん わん(我)にん いや(汝)ん わん(我)にん

 艦砲ぬ喰ぇーぬくさー

 ちょっと汗をかいてしまいました。失礼しました。これで私のお話しを終わらせていただきます。どうもご清聴ありがとうございました。

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総務部 町長室
沖縄県中頭郡北谷町字桑江226番地
電話:098-936-1234
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