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2悪化する戦況

更新日:2016年12月1日

 昭和19年の頃から、非常に戦況が緊迫してきました。その後が、皆さんよくご存知の10.10空襲の話しになります。そして後、那覇市を含めて攻撃を受けます。それから南部地区の方ではですね10.10空襲の後、北部の方にどんどん避難が始まっております。そして北谷はといいますと、昭和20年3月18日にですね、資料からみますと村長の新垣 實さんが、村民に対し北部への避難指示を出しておりますね。ということでちょうで昭和19年頃から羽地の方に役所の係の方を派遣して、前準備として避難小屋等の準備を始めていたようです。それを目指して避難を始めたわけです。(次お願いします)
 それでは、10.10空襲の話しをちょっと振り返ってみたいと思います。10.10空襲はですね私は那覇市だけが大変な空爆、爆撃を受けて大損害をうけたというふうに思っていたんですが、実はその時にですね、爆撃を受けたのは他にもありまして、この地図に示しますように伊江島ですね。それから運天港、それから本部、名護、ここは嘉手納屋良ですかね。それから北谷それからこれは北中城でしょうか。そして那覇の港の辺り。それから知念地区ですね。それから糸満。こいう地域が実は爆撃を受けていました。(次の写真お願いします)
 これが那覇の方での被災の状態ですが、下の方が那覇港ですね。ここを中心にした辻町とか、あるいは西町といった辺りが、戦災がひどかったようです。(次お願いします)
 これが、爆撃を受けて炎上する那覇の港です。那覇の港にはいわゆる輸送船といいますか、軍の物資とかそいうものが積まれた船がいっぱいあったようで、それが爆撃を受けて炎上するところですね。この辺りは前のほうですから、辻町とか、西町の辺りの所になりましょうか。(次お願いします)
 この写真が戦災後の那覇港ですね。これが奥武山です。これが明治橋ですかね。この辺りが那覇近郊ですね。そして辻町から下の西町がこの辺ですかね。これがこういう状態の被災を受けたようですね。(次お願いします)

 それでは、私の避難の話しに移りますが、これが私の避難ルートですね。私の家族ですね。ここが北谷です。そしてこれをずっと今の国道58号沿いになりますか、恩納を過ぎ名護を過ぎて羽地のなこーし(仲尾次)ですね、ここに避難小屋がありましたのでここに着きました。その後米軍が上陸した後はですね、源河の山を抜けて東側の久志村でしたかね、久志村の瀬嵩にぬけて、瀬嵩から久志に降りてここでいっぺん米軍に捕まります。それで後で話しますけど、いっぺん逃げて、その後また宜野座に戻りさらに時間を経て安慶田に来て、安慶田から北谷の方に戻ってきました。それではその途中の話しをしましょう。(次お願いします)
 昭和20年の4月頃ですかね、4月1日これがこの地区ですか。(映像を示し)読谷から北谷の砂辺ここから米軍が上陸しまして、ふたてに分かれて北側の方に攻めて行く方、それから南の方に攻めて行く方に米軍は進行しています。北の方は日本軍の配置があまりなかったようで、この上陸からですね1週間もしたら名護に到達しているんですね。羽地にはもう4月10日頃には米軍が来ていたようです。南部の方はその代わり後から話ししますが、実はこの城間あたりは、それほどあまり抵抗はなかったようですが、その後浦添から首里、そして南風原とかこのあたりは、ご存知のように、最後が6月23日まで約4ヶ月の戦いが続いたわけですね。
 私はですね、先程話しましたように北谷から羽地の方ですね、これにはちょっとでてこないんですけど、このちょっと上のほうに羽地村のいわゆる、なこーし(仲尾次)があります。その仲尾次の避難小屋にいたんですけれども、4月の10日頃だったと思います。後から資料を見てその頃かなと思いますが、この屋我地湾の方からですね、いわゆる米軍の戦車が、カラカラという音のいわゆるキャタピラーの音ですね。この音をたてながらそしてパラパラと小銃の音ですか、これを聞きながら山のほうに逃げ込んで行きました。その後ずっと逃げ回るわけですけれど、ももちろん家族も一緒なんですが、父が当時熱をだして寝こんでいたもんですから、うちはあんまり食料の蓄えがなかったですね。ですから途中の山での食事が大変でした。おそらく、まあ1週間あるいはその前後でしょうか、羽地から山に逃げ込んで源河山ですかね、そこを通じて後ろの瀬嵩に抜けたんですけれども、上陸した後はですね、近くの多野岳それから本部のこれ嘉津宇岳ですかね、その辺に米軍の陣地があったようでして、夜通しあのドンドンという艦砲ですか音が聞こえて、照明弾、曳光弾っていいますかね、光がパッパッーと輝くのが目に残って耳に残っております。幸いにも北部の方はそれほど死んだ人があまりいなくってですね、私も胸のほうに小銃で傷をおった方を見ましたけれども、直接亡くなった方はみておりません。しかし家族の話しではですね、荷物を担いだまま倒れている人とか、あるいは亡くなった人を見たようですから、私が子供だからという事でそういうのを見せなかったのかもしれません。(次お願いします)

 山の中を逃げ回っている頃は本当に食べ物が無くって、ご飯などもちろんないんですけれど、タピオカいうんですかね、いわゆるクズですね、これの白い粉を固めたのがありましてね、それを持っていましたのでそれを水で溶いて、そして黒砂糖のカケラですね、これを食べて飢えをしのいでいたという事です。もちろん大人の人達は皆その食料の確保が大変で、瀬嵩に着いてからはですね、村人には悪いんですけれども、畑の芋を掘りだしてみたり、それから生徒さん達はわからないと思うんですけれども、ミーンムっていいましてね、さつま芋をそのまま放置しておきますと芽がでて芽が伸びて芋が実りますね。それまでも全部掘り出して食べていて、時には村の人達とのトラブルもあったようですけれど、戦時中の事だからということで、何とかしのいできたようです。(次お願いします)

 瀬嵩から宜野座のほうに移る頃には、南部の方の戦線もだいぶ治まってきて、もう終戦に近く、沖縄戦の終結に近かったのではないかと思います。瀬(せ)嵩(だけ)にいる頃ですね、髭をはやしたかくしゃくとしたおじいさんが、中城湾(ちゅうじょうわん)には、日本の連合艦隊がもういっぱいで、制圧をして、中頭(なかがみ)は平和になっているそうだという話しをしていましてね、もちろん皆それを信じたわけではないんですけど、半信半疑のまま、じゃあ中頭に戻りましょうということで移動を始めました。そして、移動を始めましてですね、ずっと瀬嵩から下のほうに行きますと、久志のほうではちょっと山の陰になっているところがありました。そこをぐるっと回ったらですね、そこに、アメリカ軍の兵隊が待っていて、その近くには、避難民を座わらせているんですね。私達の家族と、なん家族かと一緒だったんですけど、しまったと思ったんですけれどもう時遅しでそこで米軍に捕まった。そこで待たされて順次トラックで収容所送りになったんですけれど、たまたまその時に大雨が降りまして、あんまりひどい雨なので雨宿りをしていいよということになりました。私は避難民の皆が移動しているのを気がついていなかったんですね。ひとりだけとり残されてしまったんですが、たまたまその時に近くにいたのが、ちょっと足の不自由な親戚のお兄さんがおられて、その人が気がついて、私の手を引っ張って家族の所まで届けてくれました。ですから、それがなければ私は今頃どうなっていたのかと、振り返ってみると人の運命は不思議だというのを感ずるところですね。
 まあ、そういうことがありまして、しばらく久志の部落で過ごして、ほとぼりが冷めた頃に宜野座の方に移ってきました。(次お願いします)

 宜野座に移ってからはですね、いわゆる収容所というのが後ほどお話ししますが、いわいる難民ですね、難民の人達がそれぞれ収容所に収容されまして、生活も少し戦時下ではありながら、なんとか食事にありつけた状態です。私の家族もですね。先程の久志から宜野座の方にそっと入ってきまして、最初は宜野座の大久保という所の家に入りました。そこは海に近い所だったんで、よく海の方にスヌイ、もずくですか、それを取りに行ったりしたのを覚えています。
 それからその頃ですね、南部地区もそうですが日本軍関係の捕虜それぞれ収容所に送られていて、居住区というんですかね、一般の人たちも住むところを指定されまして、そこから動いてはいけないというふうに言われていたようです。その当時父は金武にある中央倉庫、多分食料配布用の倉庫だったと思いますが、そこの主任をしていましたのでよく朝から出かけておりました。もちろん人々はその当時は、戦災直後の事ですので、特にやることはなかったんですけれども、その戦場の後片付けですね、死体でありますとか、あるいは散乱した道路の片付け、そういう事のために作業に動員されておりまして、これが後々の軍作業の始まりだったようですね。(次お願いします)
 これが、収容所のあった所ですね。ちょっと見えにくいかもしれませんけれども、こういう黒の点の有る所が収容所なんですね。この嘉手納以南の方にはそれほどないんですけれども、この辺が前原地区ですね。それから、ここが勝連(半島)ですね。それから石川地区がこの辺ですか。これが金武湾ですね。そして宜野座地区。そして北部の方では、こういう奥辺り迄あったようですね。それから本部にもあります。それからそれぞれの離島にも収容所があったようですが、そういう収容所にですね、住民の皆さん13か16ぐらいあったかと言われますけれども、そういう収容所に収容されております。(次お願いします)
 収容所の様子をちょっと見てみたいと思いますが、これは石川の収容所なんですね。ここには避難民の皆さんが収容されていて、これがテント小屋というもんですね。洗濯物がいっぱい干されておりますね。人々は特にやることありませんから、こう一緒に集まっていろいろな話しをしたんではないかと思いますね。終戦直後の大変な状態です。(次お願いします)
 これが屋嘉の収容所です。後ほど、またその当時の歌を紹介したいと思いますけれども、その歌にも歌われている屋嘉の収容所で、ここには日本軍の捕虜とかですね、それから朝鮮からつれてこられた軍夫の方、あるいは台湾の軍夫の方7千人位ですかね、が収容されたというふうに資料は残っております。(次お願いします)
 これは捕虜になった兵隊達です。昼は使役(しえき)にかり出されて、それから夜は収容所に入れられて、監視のためのサーチライトが夜でも真昼のごとくついていたというふうに言われます。(次お願いします)
 居住区がだいたい決まってきましてね、食事が大変だったんですけれども先程ご紹介しました収容所には、そろそろ住民の登録というのがおこなわれて、それを基にいわゆる配給ですね、食料とか必需品を配っていたようですが、これがその時の住民登録の様子ですね。各収容所でだいたい似たような事だったと言われていますので、宜野座地区もたぶんこういう状態だったと思いますね。(次お願いします)
 これがその配給を配って、それを受け取っている様子ですね。班長さんという方がおられて何家族分とかをまとめて受け取ってくれるんですね。そして、その収容所に戻ってその家庭の方に配布。この腕章をつけている方がどうも班長さんらしいですね。(次お願いします)

 先程ちょっとお話しましたように、仕事というのはその当時、収容所の皆さんは、ありませんけれども、戦時の後ですからいろんな戦災を受けた建物のガラだとか、あるいは亡くなった人達の死骸がそのままになっていますので、そういう整理作業に人達がかり出されたという事ですね。それで朝になりますとこういう所に集まって、ここでそれぞれ班分けをして、トラックに乗ってそれぞれ作業場所に移動したようですね。(次お願いします) これは、移動して作業を行った後でちょうどお昼になりますと、休み時間ですから食事になるんですが、この今食べているのが、いわいる兵隊の携帯食。あの当時はレイションと言ってましたね。ケイレイションとかシイレイションとかいろいろ名前がついていたんですが、パン、クラッカーとか、あるいはそういうお腹の足しになるような物の他に、砂糖とかですね、ジャムとか、それから後からお話しにでてきますが、タバコですね、そういうのが入っているのがレイションといいますね。これはそれを今食べているところですね。(次お願いします)

 その当時、しかし、南部のほうは大変な状況だったようですね。ここの先程言いましたように、この読谷村の都屋から北谷の砂辺あたりにかけて上陸しておりますけれども、南に向かった米軍はどんどん侵攻しまして、最終的にはこの摩文仁の方ですね、ここで司令官の自決で終わりになるようですが、南部戦線も最初はですね、それほど日本軍の抵抗は無かったようなんですけれども、宜野湾の嘉数台地とか、それから前田高地、首里石嶺辺りでの攻防戦が激しくて、それを終わって後ですね南部に行くんですが、例の牧港 篤三さんの鉄の暴風という本がありますけれども、その名前にありますようにそれこそ艦砲射撃の雨、いわいる艦砲の雨が降ったということです。6月23日の牛島中将の自決で、沖縄戦はほぼ終結になるんですね。23日については22日だという説もあるようですが、いずれにしろ23日には沖縄戦は終わって軍民あわせて22万、本島内では20万ですかね、そのうち住民が12万で、米軍関係が1万5千、日本軍関係が6万5千でしたかね、ということになっておりますけれども、死者が22万人ですから、6割ぐらいは住民だったということになります。こういう戦争はおそらく、近代戦ではないだろうと思います。(次お願いします)

 これはですね戦争の時の光景で、ここがどこか皆さんお分かりですか。ご覧になった事がある人がいるかもしれませんが、実はこれ首里城のそばなんですね。ハンタン山です。首里城の壁が壊れています。すぐ手前の方に園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)がありますし、その前のほうに例の守礼之門があります。皆さんの方から見ますと左側の方に龍潭(りゅうたん)池がありますね。ここの木が全部戦災で焼けちゃって、それから城壁も崩れております。こんな状態ですね。(次お願いします)

 これは、その首里の戦いで、戦死をした日本軍の兵隊です。おそらく若い皆さんは、映画等では見たことがあると思いますけれども、本当に人間はこういうふうに死んでしまうんですね。死んだ人間は生き返りません。どうも最近のCGで見ますと、リセットすれば、また立ち上がって歩きそうな錯覚をしますけれども、人間の命は一つです。死んだら絶対生き返りません。これを皆さんぜひ心に止めておいてください。(次お願いします)

 これは南部の住民達の様子です。戦争の爆撃と戦禍を免れた子供達ですね。子ども達が、米軍の指示に従いまして、いわゆる収容所に向かうところですね。これは本島の南部ですから、真壁とかあの付近だと思います。(次お願いします)
 これも同じですね。これは具志頭村(ぐしちゃんそん)ですね。(次お願いします)
 これも同じですね。これは向こうに、ちょっと書いてありますけれども、玉城村(たまぐすくそん)ですかね、(映像を見ながら)の状況ですね。(次お願いします)
 これはですね、集団自決と見られるんですが、皆さんよくご存じの、先程の生徒さんの報告の読谷のチビチリガマ、それから慶良間の自決がよく知られていますけれども、これは米軍の記録では、戦災に巻き込まれて命を落とした人々というふうに解説が付いているようですけれども、この状況から見てもどうも自決なんですよね。こういう自決というのは、読谷や慶良間だけではなくて、本島内でもいろいろなところで、自決があったんだろうと思います。これはその一つです。(次お願いします)
 これは伊江島ですね。お年よりと子どもと、女性の皆さんですが、やっと命拾いをしたんだけれども、さて、これからどうなるんだろうかという不安を皆かかえてですね。収容所送りを待っているところです。(次お願いします)
 これは伊平屋島の写真のようですが、この車に乗っている人がお年寄りの女の方ですが、側でこの車についている人がおばあちゃんの娘さんだそうです。よくみると点滴をしてるんですね。その当時、点滴というとちょっと考えられないんですけれども、いかに米軍が住民の扱いに対しては、人道的だったかということが、これで少しわかりますね。もちろん戦場というのは非情なものですからこういうこともあるんですが、また大変ひどい事もあったんですね。しかし、この伊平屋の場合はこういう状態で、これから娘さんが付いて、診療所に向かう所のようですね。(次お願いします)

 さて、人々は収容所に着いた頃ですね、やっと命拾いしたという安堵感もあったんでしょうけど、しかし、先どうなるんだろうかと心配があったんですね。ところが沖縄の人達はですねよく言われますように、非常におおらかっていいますかね、ナンクルナイサーという気持ちもよく言われますけれども、収容所の中でもですね、だんだんそういうのがでてきまして、せっかく命拾いをしたんだから、命のお祝いをしましょうということで、有名なブーテンさんあたりがですね、小那覇 舞天(ブーテン)さんは、踊りのできる人達を集めてですね、収容所でいろいろ慰問の踊りをやったということですけども、そういう芸能が人々の心を少し慰めることを手伝ったようです。その当時ですね、考案されたのが、今前にでております、カンカラサンシンです。よくご存知だと思いますけれども、缶詰の缶を頭にチーガ(三線の胴)にしまして、それに手作りの竿を付けてこれで歌を歌いだしたんですね。そいうことで少しずつ気持ちを落ち着かせていたというふうに、言われております。(次お願いします)

 「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉がありますね。この屋嘉節というのは、沖縄の民謡に、チチミ節という曲があるようですが、それにのせて歌った歌なんですね。歌詞からみますと、やはり収容所当時の事を表しております。それで今日私、サンシンを持ってきましたので、ここでこの屋嘉節を途中の休憩がわりに、一・二節ちょっとやってみたいんですがよろしいですか。(会場から拍手)
 この歌にはですね、いろんな歌詞がついているんですが、この中から一番と二番とそれから三番になりますかね「くくるなぐさみる しふんいりたばく ふきばしみじみとぅ ちむにすみてぃ」とあるんですけどね、その当時歌われていたと思いますのでそれをちょっとやってみますね。

(歌と三線)すみませんちょっと時間を拝借します。

 屋嘉節・・・

 1. なちかしや沖縄 戦場になやい 戦場になやい

 世間御万人ぬ 流す涙(袖ゆ濡ち) 流す涙(袖ゆ濡ち)

 2.無蔵や石川村 茅葺ちぬ長屋 茅葺ちぬ長屋我んや

 屋嘉村ぬ 砂地まくら 砂地まくら

 3. 心なぐさみいる しふん入(4本)り煙草 しふん入り煙草

 ふけばしみじみと ちむにすまて ちむにすまて

 ということで、この屋嘉節の中にですね当時の状況がでてきますが、この中にでてきますしふん入り煙草ですね。これは、タバコが4本入ったケースがあったんですね。これはもうほとんどの皆さんがご存知ないと思いますけれども、先程お話したレイションの中にですね、コーヒーとか砂糖とか入っていたんですが、そのなかにタバコ4本入っていたケースが入っていたんですね。ですからおそらくこれをご存知の人は、おそらく私より年上の皆さんだと思いますけれどもね。(次お願いします)

 それから、宜野座からですね、安慶田のほうに移動してきました。安慶田での学校の様子を申し上げますと、私は昭和14年生まれですから、昭和21年が小学校入学です。宜野座で小学校入学しましたけれども、いろいろ事情がありまして、宜野座からですね、昭和21年の春かその頃だったと思いますが、安慶田の方に移りまして、安慶田には、私の母の実家のですね、大山川ですがそこの家族がおりましたので、母は私とそれからその当時はまだ男の兄弟3名と女の兄弟1人4名を連れて、それからまた一緒に子供達の面倒をみるということで母の妹が避難を一緒にしておりましたけれども、一緒に連れて安慶田にきました。安慶田では母の実家ということで、一緒に生活を始めました。ですから小学校も、宜野座から安慶田小学校に移りましたけれども、その当時はまだ小学校1年生ですので歌とかですね、そう言うことをやって、いわいる勉強はしていなかったと思いますし、それから学校の校舎もありませんでしたから、後ほど写真でご紹介しますが、青空教室とかですね、あるいは民家を借りての学校生活でした。
 それから、ここではですね、そろそろいろんな状況が落ち着いてきまして、例えば移動禁止だったんですが、自分の近くの畑とかですか、そいうところは、認められていたようですね。そこで私の祖母とか母とか、それから近所の人達もいわいる隊列を組んでですね、字北谷の方まで、芋を作ったりする為に通っていたようです。
 そして人々は、やっと命ながらえたという安堵感を、感じ始めた頃だったと思います。それと当時ですね、その当時は、自分の家族を亡くした人がいっぱいいたんですが、両親を亡くした子ども達が沢山いましてね、これをあの当時は戦災孤児というふうにいってましたけど、こういう人達を収容する孤児院っていってましたけどね、こういう施設はそのころから出来ておりました。それから、子どもの事ですからいろんな遊びを考えだして、それをちょっとお話しましょう。(次お願いします)

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