北谷町の戦跡・記念碑
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北谷近郊の戦跡奉安殿天皇・皇后の写真を御真影といい、それを安置したところを奉安殿という。国民の皇民化のシンボルとして教育界においてもひろく利用された。戦前は県内の各学校には御真影が配布され、天皇・皇后の分身としてく尊崇>とく丁重>な奉護を強要された。沖縄市字知花在(旧美里国民学校内)チビチリガマ読谷村波平地区在忠魂碑天皇のために死んでいった者を顕彰するための碑で、戦前の日本の軍国主義思想のシンボルである。この種の碑は、日露戦争で戦死者がどんどん増えていくと全国各地で建立された。天皇に対し忠義、忠節を尽くし天皇のためなら命も捧げてよいという思想行動を形成するのがねらいであった。沖縄市児童圏内在(1日美里国民学校内)読谷村の波平の住民が避難した自然鍾乳洞である。米軍の投降呼び掛けに対し、壕内の警防団が竹槍で抵抗したため、逆に米軍の反撃にあい、壕内はパニックに陥った。壕内では放火が起こり、その煙により避難したt 141名中82名が死亡した。一方、チビチリガマから約1km離れた所にあるシムクガマではハワイ帰りの男性が米軍と交渉し、避難民全員が救出されている。指導者の違いによって、死に追いやられた者と救出された者とそれぞれ明暗を分けた。降伏調印の地旧越来村森根日本政府は1945年(昭和20年)8月14日にポツダム宣言を受諾して敗戦処理に取りかかっていたが、沖縄・樺太・満州ではなお戦闘状態が続いていた。宮古群島・八重山群島では8月15日まで実質的に戦闘状態が続いており、宮古・八重山の日本軍が武装解除されたのは9月上旬であった。8月26日、沖縄攻略部隊のアメリカ第10軍司令部はfg月2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じるように」連合国軍司令部から命令を受けている。これは、9月2日に東京湾のミズリー号上で、日本軍が連合軍に対して公式に降伏調印した事を受けて、最終的に沖縄戦を終結に導くものであった。9月7日、宮古島から第28師団長の納見敏郎中将、奄美大島から高田利貞陸軍少将、加藤唯男海軍少将らが降伏調印のために嘉手納基地に召還された。降伏調印の場所は旧越来村の森根である。3将軍は、アメリカ第10軍司令官ステイルウェル大将に対し、「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏Jを申し入れ、6通の降伏文書に署名して正式に降伏、日本国内で民間人を巻き込んだものとしては最大の地上戦が名実共に終わった。月iつ】

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