北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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ジャーの川べりなどにあった。いずれも個人所有であった。学校は、ジキランミチからケンドーへ出て、キタタマショーガッコーヘ通学していた。よニんいんナケーマヤードゥイ(仲山屋取)の人とは婚姻を結ぶことがあった。[集落で行なわれる主な年中行事].旧暦2月2---3日<ニングヮチャー(クスックィー)>:ヤマガおがサンシンひおどマーを拝んだあと、ごちそうを食べ、三昧線を弾いたり、踊ったりして遊んだ。毎年持ち回りで、大きい家を借りて行なわれていた。男女一緒に参加した。話者によれば、昔は青年と年寄り組に分かれていたらしい。会費はみんなから徴収しており、15歳以上からは全額徴収であった。.旧暦6月25日<ワラビジナ>:豊年祝い。子どもだけでやる綱引きのこと。集落を南北に走る道を境にして、イーンダカリとシチャたいまつンダカリに分かれて行なわれた。夜に行なうので、大人たちは松明を持って応援する。子どもは昼からチナウチをしていた。e<ウーンナ>:寅年にはチャタンサン力合同でウーンナが行なわれる。昼に行なう大綱引きで、300年の歴史があると言う。戦争で中断したものの、戦後、昭和49 (1974)年に復活し、その後も昭和61 (1986)年、平成10 (1998)年の寅年に行なわれている0.旧暦7月<エイサー>:忌中の家以外、全部の家を回る。ごちそうを食べながら、酒をもらい、その酒を飲みながら回っていた。余った酒は売って、費用にあてた。チャタン(北谷)の屋号ヌンドゥルほうのうぶようチとジュショーインの2か所には必ず行って、奉納舞踊をしていた。奉納舞踊はチャタン(北谷)とタメーシ(玉代勢)もそれぞれ行なっていた。ま.旧暦8月<シマクサラシ>:魔よけ。病気や災害が入ってくるのとおを防ぐための行事。集落の入口6か所に、馬車が通るぐらいの高さはプタで竹を2本立て、そこにしめ縄を張り、真ん中に豚肉をつるした。また、豚の血はナカミチに置いておき、各自でギキチャー(ゲッキよすみツ)で豚の血を家の四隅につけた。せっし。うずけらん集落域は米軍に接収され、キャンプ瑞慶覧内である。米軍のエンそうこジニア部隊がいた。現在も米軍の倉庫が立ち並んでいる。県道ベいぐんしょうぼうLよ130号線の北側で、米軍消防署の西側あたりとなる。そのため、ぷんさん人々は他集落へ分散して暮らしている。91 -北玉尋常高等小学校:北谷尋常高等小学校の分教場であった。大正3(1914)年に北玉尋常小学校として開校し、大正6(1917)年に高等科を設けて北玉尋常高等小学校となった。.ニングワチャー:旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。-ワラビジナ:子どもたちによる綱引き。-チナウチ:綱引きの網を絢うこと。・ウーンナ:大綱引き。-エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。-シマクサラシ:集落に悪疫が入ってくるのを防ぐための行事。-キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター):沖縄本島中部にある米海兵隊墓地。

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