北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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リンド一(伝道)チャタングスク南側の麓にある集落。戸数25軒で、そのうちカーラヤーが5車干あった。チャタン(北谷)やタメーシ(玉代勢)とともにチャタンサンカと称される。ほとんどの行事を、この3集落合同で行なっていた。ジャーガルヤードゥイ(謝苅屋取)、卜ーバルヤードゥイ(桃原あざ屋取)、サチジョ一ヤードゥイ(崎門屋取)を含めて、字伝道を形成していた。集落を南北に走る道によって、イーンダ力リとシチャンダカリに組分けされていた。道から東側をイーンダカリ、またはアガリンダカリと言い、西側をシチャンダカリ、またはイリンダカリと言っていた。ワラビジナのときだけの京且分けであった。主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。フィリピンやペルーなんようでかせなど、南洋へ出稼ぎに行っていた人も多かった。マチヤが1軒もなかったので、日用雑貨などはチャタン(北谷)へ買いに行っていた。個人で井戸があったのは屋号ウフヤー:12の1軒だけで、その他の人はチンガ一、リンドーガ一、ヤマガーなどを利用していた。サーターヤーは、屋号ミーヤシチグヮー(新屋敷小): 25の南側に共同のものがlか戸庁あった。サーターグルマがあり、馬で引いていた。馬は持っている人に借りて、イーマールーで返していた。松やしぼほねんりょうサトウキビの絞りかすを干したものを燃料にしており、さらに強い火力が必要なときには石炭を少し混ぜていた。製糖期が終わると、窯はそのままにしておいたが、サーターグルマははずして、横に倒じくぎして置いた。サーターグルマの軸木は、屋号イーパシガー17の東南にあるクムイに漬けた。サーターヤーで処理できなかった分は、とおかで荷馬車に乗せ、ケンドーを通り、嘉手納の製糖工場へ持って行った。工場から委託を受けて、屋号メーヌヤーがサトウキビ運搬の順番や出荷の日にちなどを決めていた。また、チャタン(北谷)にハツドーキがあったが、リンド一(伝道)の人たちが使うことはなかった。拝所は、集落のほぼ真ん中にヤマガマーと呼ばれる拝所があった。ホ3カfニングヮチヤーのときに拝んでいた。リンド一(伝道)発祥の地だと言われている。ガンヤーはメーグスクジマグヮーのところにあり、チャタンサン力で利用していた。ガンの材質はチヤーギ(イヌマキ)で、坊さんそうかの絵が描かれていた。ガンをガンヤーから喪家まで持って行き、そこで組み立てて、棺を入れる。墓まで4名で担いで行った。墓でガンを解体して、ガンヤーに持って行って納める。リンドー(伝道)の人たちの墓はほとんどヤマガーバルにあった。ガヤモーは、チャタングスクの中にあるグスクパルや、シルヒー90 -カーラヤー:瓦ぶきの家。《聞取り調査風景》-ワラビジナ:子どもたちによる綱引き。-マチヤ:応。-サーターヤー・製糖小屋。・サーターグルマ:サトウキビを圧搾する装置。・イーマールー:順番に労力交換を行なうこと。-クムイ:池。沼。・嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治45(1912)年創業。-ニングヮチャー.旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。・ガンヤー:高を納めておく小屋。・ガン:寵。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。-ガヤモー・屋根を葺くのに使う茅を生やしていた野原。

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