北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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1橋肉|ガイセンバシ|ウガンの南西側にあり、ノーリグヮーに架かっていた橋。木橋だったが、3回ほど水に流されたので、昭和13 (1938)年頃に石橋に改築した。改築当時は日中戦争が始まったばかりの時期だったいれいはじめので、勝利を祈願するという意昧で、伊礼肇村長がガイセンバシカ,<.、せんばし(凱旋橋)と命名したと言う。とお馬車も通ることができた。また、コンクリートで高さ60c mぐらいのランカングワーが作られていた。ときどきモーアシビも行なわれていた。L ゆっせいおが出征する兵士は、ニードゥクルを拝んでからこの橋を渡り、発っていった。|ユタカバシ|ノーリグヮーとシナビヌメーヤールイ(砂辺ヌ前屋取)の屋号カーニー()11根)に続く道に架かっていた橋。昭和18'" 1 9 (1943'" 44)年の1"'2月頃に作られた。話者によると、完成後すぐに、沖縄戦が始まったので、そのときに壊されたと思われると言う。ごく短い間しかかかっていなかったので、名称などははっきりしない。戦死者を集落に迎えるときはこの橋を渡らせたと言う。1製糖小屋@ 1サーターヤー|共同製糖小屋。屋号メンティーラ(前照屋): 17の北側の道路をはさんで向かいにあった。2か所並んでいたが、昭和年代には1か所しか使われていなかった。メーチンジュとメーナカチンジュの人たちが共同使用していた。|サーターヤー|共同製糖小屋。屋号メーヌチヤングヮー(前ヌ喜屋武小): 64の南側にあった。イリナカチンジュの人たちが共同使用していた。|サーターヤー|共同製糖小屋。屋号力マーチニングワー(蒲知念小): 99の西側、道をはさんだ向かい側にあった。イリチンジュの人たちが共同使用していた。339 -ランカングヮー:欄干。圃モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線・歌・踊りなどをして楽しむ。《現地調査・嘉手納基地内》

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