北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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して行なうムラシーミーのときには、ウガンでも祈願を行なっていた。らん話者によると、たくさん生い茂っていた木を家屋造りのために乱伐されたら困るという意昧があったかもしれないが、本当に崇りもえんたいごうおきたと言う。昭和19 (1944)年、掩体壕を作ることになったときには、シナビ(砂辺)集落では軍に出資を願い出て、祈願を行なってから樹木の伐採をした。祈願を行なわずに伐採したときは、作業員にけが人や病人が出ることがあったという。|ンマイームイ|ンマイーの北側にはンマイームイと呼ばれる丘が隣接し、南は屋号マカルーイリーグワ一(真苅伊礼小): 1のあたりの小さなシーのところまで広がっていた。ムラアシビなどの行事やモーアシビをする場所だった。1 7本位の立派な松があり、そのうちもっとも東側にあった古い松は特にホーヤーマーチと呼ばれていた。しかし、現在ある松はすべて戦後のものである。また、ンマイームイの東側斜面にはたくさんのソテツが生えていた。現在、「米軍上陸地モニュメントJがあるところである。j也沼. 1イチ|池。屋号ユージグヮー(与儀小): 95の南側にあった。浅かったが、広さは100坪ぐらいあった。大雨が降ると雨水でいっぱいになわかちくる。湧き水ではなかった。家畜(馬・牛)に水浴びをさせたり、芋を洗ったりするのに使っていた。区司わた池。力チラの側にあった。きれいな水が湧いており、それが溜まって池になっていた。カチラとつながっており、その一部になっていイモた。農作業の帰りに家畜(馬・牛)に水浴びをさせたり、芋を洗ったりするのに使っていた。子どもが泳いで遊んだりする場所でもあった。|ノーリグワーグムイ|ノーリグムイとも言う。ノーリグヮーの途中、土地の高低差のために滝になるところがあり、その滝壷のところには常に水が溜まっていた。それをノーリグワーグムイと言う。2尋(3m)ほどの深さがあった。広さは馬が泳げるぐらいに広かった。雨が降るといっぱ336 -ムラシーミー:集落で行なう墓参り。集落の共同墓地や拝所で祈願をささげる。圃掩体壕:射撃がしやすいように、また敵弾から身を守るための壕。-シー..岩山。・ムラアシビ:歌・三昧線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸・娯楽。・モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三昧線・歌・踊りなどをして楽しむ。-米軍上陵地モニュメント:北谷町の平和祈念のシンボルとして、平成3(1991)年4月1日に建立されたもの。《間取り調査風景》

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