北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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チュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)ヤドゥイ北谷町域北側一帯に広がっていた屋取集落。戸数は48軒で、そのうちカーラヤーは屋号ウシーアシンミ(牛安次嶺)と屋号サンルーアシンミ(三良安次嶺)の2軒だけであった。集落はメーグミとクシグミの2つに組分けされる。クシグミは、さらにアガリグミとイリグミに分けられた。話者によると、この組分けの由来は、あるトゥシヌユルーに3軒の葬式があったことから始まったと言う。一度に3軒の手伝いをするのは大変であるために、メーグミ、アガリグミ、イリグミの3つに出E分けするようになったと言う。チュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)はハンジャヌウィーあざがくヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)とともに、字浜川に属していた。学じLょうれいかい事奨励会も一緒に行なっていた。イモかんきつるい主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。また、柑橘類の一種であるオートーやカーブチャーなどが、各家に10本ぐらいあり、かんきんさくもつその実を買いに来る人がいた。サトウキビと同じく、換金作物の1つとなっていた。また、それらの木々は屋敷囲いの意昧もあった。集落内の馬はメーグミー9頭、アガリダミー2頭、イリダミー4頭の計15頭であった。畑が少なかったため、耕すために使う牛馬をかたいひかちく飼う必要がなく、堆肥も必要なかった。そのため、家畜の数はそれほど多くなかった。食肉用としては、牛がメーグミ9頭、イリグプタかミー5頭の計14頭であった。豚は各家で飼われていた。屋号ウシーアシンミ(牛安次嶺)は闘牛用のクティ牛を飼っていた。集落内ではl軒だけで、久米島まで買い付けに行ったと言う。自転車を所有している家は、屋号メーイトゥムラ(前糸村)、屋号カナーイトゥムラ(加那糸村)、屋号アガリイトゥムラグヮー(東糸村小)の3軒だった。屋号ウシーアシンミ(牛安次嶺)と屋号サンルーアシンミ(三良安次嶺)の2軒には畳があった。サーターヤーが6か戸庁あった。サータークルマを回すために馬を使っており、その馬を追うのは子どもの仕事であった。サーターヤーの借り賃は、事を燃やした後の灰で、あった。この灰は詮晶に良いため、ちゃんと管理されていた。できあがった砂糖は、承義のとうんどー通堂まで馬車で運んでいた。馬車はメーダミー7台、アガリグミーl台、イリグミー2台の計10台あった。1台に8""'10丁ほと、積むことができた。砂糖1丁(120斤)の値段は、特等・l等は12円以上で、あまり質の良くないものは5円であった。集落内の4か所にユシミヌカドウという備かあったらしいが、その場所ははっきりわからない。現在は、成人病検診センター沿い298 圃カーラヤー:瓦ぶきの家。-トゥシヌユルー:大晦日の夜。-学事奨励会:学童の勉強を励ます会。-クティ牛:雄牛。-サーターヤー:製糖小屋。・サーターグルマ:サトウキピを圧搾する装置。《聞取り調査風景》

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