北谷町の綱引き
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2.備え・示威行為(1)旗頭北谷、伝道、玉代勢の北谷三ヵ村で行われる大綱引き(ウーンナ)には、旗頭(ハタガシラ)が用いられる。乙の旗頭は、戦前、北谷や伝道、玉代勢の各字で毎年引く綱引きには使われず、大綱引きだけに使われていた。三ヵ村では、旗頭もナナクミワイで分けられることから本数は、北谷が4本、玉代勢が2本、伝道が1本、合計7本となっている。乙の7本という本数は戦前から変わっていないようで、『琉球新報~1914 (大正3)年8月17日付、「北谷の綱曳Jの記事に東方に4本、西方に3本と記されている。三ヵ村でそれぞれ何本の旗頭を所有していたのか、この内容では不明だが、本数の割り合いは変わりないように思える。乙の項では、戦前から戦後3回行われた大綱引きでの旗頭の様子について報告する。なお、ここでいう旗頭とは、竿頭の飾りをはじめ、旗竿に掲げた旗や吹流しなどの飾りも含めた全体のことをいう。①北谷戦前の旗頭の様子について『字誌北谷~(1986)には、「夫々前渠と後渠と旗頭四竿づっ竿頭には桜、梅燈龍、豊作を象徴する旗頭を作り」とあるが、このような具体的な内容まで聞くことはできなかった。しかし、本数に関しては戦前からメンダカリ(前村渠)、クシンダカリ(後村渠)とも各2本で、1926(大正15)年と戦時体制下の1938(昭和13)年の大綱引きの際にも旗頭を出した。旗頭を持つ練習は、メンダカリが屋号シーサーニー(獅子根)近くのソンドウ(村道)や組合敷地で、クシンダカリは北玉尋常高等小学校で、行った。戦前、旗頭の製作は、部落内に製作者がいたようだが(屋号不明)、何らかの理由で作ることができず、結局、桑江方面に住んでいた浦崎姓を名乗る方に依頼した。この浦崎さんは、後に(時期は不明)泡瀬(現沖縄市)に引っ越した。戦後初の1974(昭和49)年の大綱引きの際にも浦崎さんに製作していただいた。戦前、1926(大正15)年の大綱引きの旗頭持ちは、北谷出身の青年だけでなく、北前や石平の方からも加勢があったようだ(仲村新正さん談)。戦後は1974(昭和49)年にハンビー飛行場跡地で大綱引きを行った。この時は、台風14号の影響もあって悪天候の中での大綱引きであった。北谷の旗頭はメンダカリ、クシンダカリ各2本で、メンダカリは竿頭の飾りに梅の花を象った。2本とも同じ型であった。クシンダカリの竿頭の飾りは、満月を表したような丸い形に雲がかかった形をしていた(写真にて確認)。これら竿頭の飾りの中にロウソクや電灯等で明かりを灯すような工夫はされていなかった。竹製の旗竿には、長方形の旗を掲げた。旗には「招豊年j、「清風Jと書かれていた。n,“

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