北谷町の綱引き
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引きのシタクの出し方は那覇型であった。シタクの出し方には他にもバリエーションがある。たとえば、与那城町字屋慶名では、未就学男児をワカスと称して双方合わせて30人くらい綱に乗せる。三ヵ村大綱引きに先だって、旧三ヵ字の神役に実行委員も加わって、念入りな祈顔が行われたことに注目したい。カニチ棒の用材となる松の伐りだしの拝み、完成した綱の拝み、三ヵ字それぞれの拝所の巡拝が行われた(本文118"'133頁参照)。綱引き前(北谷・伝道)と当日の基地内拝所巡拝(玉代勢)に際して、アメリカ海兵隊キャンプ・パトラーに基地内立ち入りの許可を求め、許可書が発行された(これらの文書の写しが巻末に収載されている)。拝所の一つ「網のカヌチ根軸jは1988年に旧北谷字民一同によって、「マタジJ(湧水神)は1989年に北谷ノロ殿内の家人によって碑が建てられ、以来ムラの聖地に加えられて拝むようになったという(本文124"'125頁)。戦後の過去2度の大綱引きでは、網を引く回数は1回であった。今回は2回引いた。戦前は、6月24日に字北谷のンマイーで、次の日に字玉代勢のナカミチで引いていた。それで、今回は当日2回続けて引く乙とになったという(r三ヵ村大綱引き実行委員会議事録Jを参照)。2 各字の綱引き一戦前と戦後一現在、年中行事として綱を引くのは、砂辺と野里(現嘉手納町宇野里)である。砂辺は1本のロープ綱、野里は雌雄各1本のロープ網である。戦前の綱は、平安山・北谷・玉代勢・伝道が雌雄各1本の網で、砂辺と下勢頭が雌雄各2本、桑江が雌雄各3本、であった。今回の調査によれば、野里の綱は雌雄各6本であったという(本文184"'185頁)。ワラ網の全長と両端にカニチをもっ5本のワラ綱の太さと長さはそれぞれどれくらいであったのか、連結した綱の強度はどうか、もっと詳しく知りたい伝承ではある。戦前の野里の綱引きは南風原町喜屋武の綱引きと似ていて、坂で引いたが、喜屋武とは逆に雌網が坂の上の方で、坂下が雄網であった。しかも雌網が勝つのが通例であったという。雌綱に勝たせる綱ということになるが、北谷では雄綱が勝つとユガフ一、桑江では雌綱が勝つとユガフーと伝えられていた(本文164,169頁)。戦前の北谷村では、同じ村内でも、①引く期日、②網の形、③双分組織、④綱の引き手、⑤旗頭の有無、⑥ガーエ一、⑦引く時の掛け声、には字ごとに若干の相違があった。6月ウマチー網を引いた字、6月カシチー綱を引いた字があった。旧士族系の屋取集落「下勢頭Jでは男だけの綱引きであったという(本文152頁)。首里の綱引きにならったのであろうか。伝道と玉代勢はそれぞれ村落を上と下に分け、上が雄綱、下が雌綱を引いた。他字の双分組織は村落を前と後にわけた。前組が雄綱とされた字は砂辺・下勢頭・平安山で、前組が雌網を引いたのは桑江・北谷・野里であった。北谷・玉代勢・伝道では、カシチー当日に実家の兄弟から、婚出した姉妹にムイブン(新米で炊いたご飯の大盛り)を届ける-196ー

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