北谷町の戦跡・記念碑
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そういう状況の中で、疎開生活と2学期の学校生活は進んでいくのですが、出身校ごとに集団での登下校、登校すると毎日のように朝礼が行われ、点呼・宮城遥拝・「海ゆかば」斉唱が日課となっていました。(宮城遥拝とは、天皇陛下の住んでいる皇居に向かい毎朝、最敬礼をすることです。)2ヶ月を過ぎたあたり、10月頃からは、登校途中毎日のように空襲警報や警戒警報のサイレンが鳴り出すようになり、安全な場所を求めて山手へと避難する日々が続きました。避難した山には、みかんやびわの木などもあり、ひもじさの足しになることから、いつしかみかん欲しさの為警報を期待するようになっていました。日奈久での生活も長くは続かず毎日のように警報が出されるようになり、文、八代市という大きな町の近くにあるため危険だということで、安全な場所に再疎開することになりました。疎開先は熊本県内、八代群種山村(現在の東陽村)大字小浦の福音寺というお寺で、寺から片道2キロほど山道を登った所にある種山小学校の内の木場分校へと転校しました。その古い校舎も私達疎開児童の宿舎として利用したこともありました。古い校舎といえば、寒い、つらいことが思い出されます。昭和21年の1月か2月頃かと思いますが、その校舎では、近くの滝つぼの上流から孟宗竹という大きな竹で飲料水を引いていたのですが、その水が凍ってしまい、氷点下の厳しい寒さの中で、氷を取り除く作業は、寒いか、痛いかの区別もつかない程辛かった事が、今でも忘れる事ができません。また、寺での食事はたいそう組末なもので、毎食のように雑炊でした。雑炊とはいっても、お碗に米粒が数えられる位しか入っていないようなもので、疎開者は、大人も子供もほとんどの人が、食べ物のことしか考えられないような、本当に貧しくて厳しい生活の連続でした。通学路の近くには小さな滝つぼがあり、その水を利用した大きな米つきの臼があり、人がいなかったので、学校の帰り道、良くないこととは知りながらも、米ぬか交じりの米を、時々無断で、取って食べた事を思い出します。放課後寺に帰ってからは、毎日のように野山に食べ物を探しに出かけ収穫後の渋柿の熟したもの、栗の実、山もも、山菜のミツバ、ノビル等を野山で食べたり、寺へ食材として持ち帰ったりもしましたがそれでもなかなか飢えをしのぐことは出来ませんでした。疎開生活を思い出して言えることは、ひもじい(ヤーサン)・寒い(ヒーサン)・寂しい(シカラーサン)と言うこと本当にそのことだけが強く印象に残っています。昭和20年8月15日私達北玉小学校の学童疎開者は、終戦を種山村で迎えました。戦争は終わったとはいえ生活は一向に良くならない状況が続き近隣の農家では、働き手を戦争で取られたこともあり人手不足の農家も多く、6年を終了した疎開児童を子守や家事手伝いや働き手として引き取り、家族同様にかわいがられていた疎開児童もかなりいたと記憶しています。しばらくたっても沖縄に帰れる状況ではなく、疎開児童の何人かは戦争前に本土の他府県に働きに行っていた身内や親戚の方々に引き取られていき、疎開児童もだんだんと少なくなっていきました。昭和21年の5月か6月、私も栄養失調でやせ細っている頃、疎開先に兵庫県の工場で働いていた姉が来て疎開をしていた三人の姉弟の中で私が一番やせ細っていたこともあり、一緒に疎開をした姉と弟を残し私だけを兵庫県に連れて行き、上の姉と叔母とのもとで元気を回復し同年10月頃、無事沖縄に引き揚げることが出来ました。本土で沖縄の情報・家族の状況は何も知らないなかでも、沖縄に帰りたい!故郷に帰りたい!との一心でした。那覇の港に着き久場崎の収容所に着くまで、やっと帰れたんだという気持ちと、嬉しさと懐かしさで、涙が止まらなかったことが思い出されます。学童疎開とは何だ、ったのかと考えるとき、寒くひもじく寂しかっただけではすまされないが、疎開生活は重要な体験であり戦後の私たちの生き方の糧となったのだと思います。あの同じ日に疎開船に乗った「対馬丸」の仲間の皆様や、戦争で亡くなられた方々のことを考えるとき、二度とあのような愚かな戦争をおこしてはならないと思います。恒久平和実現のため、一人一人が努力を続けて行きましょう。-24-

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