北谷町の戦跡・記念碑
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疎-言-一---一仲地信夫(北玉区当時10歳)学童の集団疎開は、サイパン島が玉砕された昭和19年7月7日、政府の緊急閣議で決定されたとのことです。次の攻撃目標は沖縄だということです。「沖縄から本土へ8万人、台湾へ2万人、合計10万人を7月中に引き揚げさせよ。」との閣議決定により、沖縄の学童疎開は始まったとのことです。疎開学童の受け入れ先は、宮崎、熊本、大分県の3県で、教師・寮母・家族を含め約6,600人がこの3県へと分散配置されたようでした。私達北玉小学校(当時の国民学校)の学童疎開は、沖縄にいるより安全だということで、学校や父母の進めにより、60年前の8月21日、新崎先生の引率のもとに暁空丸に乗って出発したのであります。学童疎開とはいっても当時4年生の私にとっては、船に乗って本土(やまと)に行ける、そして汽車が見られる、雪が見られる、といったようなまるで修学旅行のような期待感の方が大きかったように思います。皆様もほとんど同様の考えだったのではないかと思います。一緒に疎開した北玉の生徒は、小学1年生から高等2年生(中学生相当)までの23人でした。私たち北玉小学校の疎開児童が乗った暁空丸と一緒の疎開船は「和浦丸」と「対馬丸」の3隻でした。昨年、平成16年度の講演会の中で、仲本朝勇氏が、私たち北玉小学校の疎開児童は、当初、「対馬丸」に乗船する予定だ、ったことを知り、改めて60年前私たちは本当に運が良かったのだと知りました。私たちが暁空丸に乗船する際、先生からいくつかの注意事項と連絡があったことを今でも思い出せます。1、救命具は常時着用すること。2、海には何も投げないこと。(みかんの皮等も)3、点呼は番号でする。4、緊急時は兄弟姉妹手をつないで協力する。行動する。5、単身での疎開児童は先生が介助。以上のことを徹底していたおかげで、航海中の非常事態も乗り切ることができたのだと思います。それは「対馬丸」の撃沈後のことです。暁空丸と和浦丸は航行中、アメリカ軍の潜水艦からの攻撃の危険が続く中、到着の前日8月23日の夜にその2隻の船が衝突してしまい、船は大きく揺れ、船上は一時騒然となりました。船が大きく揺れパニック状態の中、兄弟で手をつなぎ、海へと飛び込む用意をしながら船の揺れの治まるのをまったものでした。船は幸い航行を続けることができ、翌24日、無事に長崎につくことができたのです。翌日には早速、疎開地である(熊本県葦北郡日奈久町)現在の八代市日奈久町に配置されることになり、私達北玉小学校を始め、15校940人の学童が、日奈久町内の旅館へと配置されました。日奈久の町は温泉保養地ですばらしいところであり、沖縄から行った疎開児童にとって施設は満足できるものだ、ったと思います。沖縄から疎開したほかの学校の児童もみんな、それぞれ町内の旅館に配置されました。円六リワ】

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