北谷町の戦跡・記念碑
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南原の隊身挺子女.ニEm--=関喜友名豊子(下勢頭、挺身隊当時19歳)銃撃と自決の修羅場海軍の壕からはみんな一緒に出た。ちょうど旧の2月19日(4月1日)だ、ったと思う。その時まではみんな元気だ、ったよ。あっちにも、こっちにも兵隊はたくさん死んでいたけどウチたち挺身隊はみんな無事だった。もう夜の12時ごろになっていたんではないかと思います。月も高くあがっていたから・・。ウチたちはいつの聞にか5名一緒に行動していたよ。兵隊を先頭にして、あらかじめブクグヮー(小石)投げたら大丈夫、ついておいでという約束をしていたので、あっちこっち離れないでちょっとずっ前進してようやく米兵の包囲からぬけだすことができた。しかし、この畑の中では大変なことが起こっていた。戦後になってはるこー(比嘉春子・挺身隊)が話していたよ。はるこーはビクビクして前には進めなくて、後ろの方でモタモタしているとあっちこっちでパーラナイして。はるこーは夜が明けるまでこっちに居て、一部始終を見たと言っていたよ。はるこーの話では米兵の機銃で死んだものも居たが、自分の持っている手摺弾で自決したものも居たと言っていた。はるこーは「みんなは弾にあたってはいないよ、手摺弾を渡さなければ半分以上は助かったはずねー」とわたしに言いよった。はるこーは片腕が無いもんだから、「あんたは何でやられたのjと聞いたら「そばの人が手摺弾をパンまかしたから、その破片にあたった」と言いよった。はるこー自身も自決するため手摺弾をこすったが、麦畑でホゥヤーホゥヤーしている問に湿ってしまって不発に終わってしまったらしい。20名から17名死亡ウチたちは山内の中隊本部めざして、用心しいしいゆっくり前進していたが、とうとう喜友名キヨ(挺身隊)が射たれてしまってね。場所は下勢頭の部落のはず、れだ、った。朝の4時か5時ごろだ、ったと思う。ウチたちは仕方なく後もどりして山の中に入り、屋良飛行場の近くまで行ったら夜もシラジラ明けようとしていた。「何か変だ」とJ思ってよく見ると、近くにシルーとクルーのアメリカーが木の葉みたいな偽装服を着て立っていた。アキサミヨ一、マブヤー落とすぐらいび、つくして、一目散に山の中に逃げ込んだら、後ろからパラパラーされて。ウチたちは瑞慶山(屋号)という家の壕に避難して、日が暮れるのを待っととにした。兵隊1人にウチたち挺身隊3名、合計4名が息をひそめてじっとしていた、左の足がしびれたのでその足を伸ばした直後だ、ったと思う。突然、壕の入口のおおいがとられ、手摺弾を投げ込まれてしまって。兵隊は即死、しずこー(新城静子・挺身隊)は「水が欲しいよ、水が欲しいよ」と半日ぐらい苦しんで亡くなった。千代もその時亡くなった。結局、海軍、陸軍あわせて20名の挺身隊員のうち17名が亡くなったことになる。ウチは左足をやられてしまって、破傷風にかかり切断されてしまい、現在では10センチしか残っていません。つ白円4

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