北谷町の戦跡・記念碑
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E沖縄戦の略年表沖縄戦は、太平洋戦争最後の日米決戦であり、日本帝国にとっては、1931年満州事変に始まる15年戦争の総決算ともなった。1 944年(昭和19年)首里城地下の陣地構築始まる。3月第本営直轄の第32軍新設(正規軍9万、根こそぎ動員で11万人)。5月飛行場建設始まる。7月緊急閣議により集団疎開が決定(九州8万人、台湾へ2万人)サイパン島玉砕(沖縄出身者約6千人死亡)8月学童疎開船「対馬丸」撃沈(1,700余名のうち生存者177名)北玉校児童23人「暁空丸」にて九州疎開出発。9月軍用車両通行のため「北谷トンネル」の天井部分間盤10月米軍、沖縄攻略作戦計画を策定1 0日、南西諸島大空襲(十・十空襲)防衛招集(21歳から45歳の男子)護郷隊(遊撃隊)の編成→残置謀報部隊軍と県学務課が中等学校生の戦場動員を打ち合わせる12月第9師団(武部隊)台湾へ転出。1 945年(昭和20年)l月米艦載機約900機が、奄美・八重山・沖縄本島を攻撃する第2次防衛召集(17歳~45歳)。2月市町村単位に国土防衛義勇隊の編成始まる沖縄本島の住民10万人を北部へ疎開計画、中途で沖縄戦に突入。19日県、北谷村の疎開地として羽地村を指定.。北谷村役場羽地分所を設置(常駐職員3名派遣)• 3月23日空襲の本格化により、住民の北部疎開促進。米軍、硫黄島に上陸。第32軍、伊江島飛行場の破壊を命ずる鉄血勤皇隊編成命令出る硫黄島の日本軍(約2万3千人)玉砕。沖縄功略作戦の開始(艦船1,500隻・上陸部隊18万人・総勢54万8千人)2 4日、師範・中学校・女学校生徒ら学徒隊として各部隊に配属。26日、慶良間諸島に米軍上陸、集団死(集団自決)や虐殺あいつぐ。4月1日米軍沖縄本島中部西海岸に上陸。その日のうちに北・中飛行場を占領する北谷村域壊滅。2日(未明)平安山海軍砲台・桑江の連隊砲全滅。山内の機関銃中隊・賀谷支隊交戦後退。北谷村の陸軍・海軍女子挺進隊山内へ脱出中に米軍に遭遇17名戦死。米軍、砂辺・北谷収容所設置。住民保護開始-7日頃閉鎖)5日米軍読谷山村比謝に軍政府設置。7日米軍名護に進攻(13日辺戸岬に到達)。この頃砂辺収容所の住民1,50 0名中城村島袋収容所に移動。北谷収容所の住民宜野湾村野嵩収容所に移動。米軍中飛行場の本格使用開始。16日米軍伊江島上陸(21日に占領)2 1日沖縄守備軍嘉数地区撤退。5月第32軍による首里での防衛戦が繰り広げられるが下旬には摩文仁へ撤退。22日戦時教育令公布(国民学校・盲聾唖学校まで学徒隊編成)6月上旬から下旬、学徒隊の解散(野戦病院は5月下旬から機能停止)各地で壕追い出し。食糧強奪・虐殺・自決の強要。第32軍の残存兵力と学徒隊は最後の総攻撃を行いほとんどが玉砕する。2 2日牛島満司令官長勇参謀長ら自決し、日本軍の組織的抵抗は終わる。7月2日米軍、琉球作戦終了を宣言。8月6日広島原爆投下。9日長崎に原爆投下。14日ポツダム宣言受諾。15日天皇終戦詔書をラジオから放送する(玉砕放送)0 2 9日マッカーサーが沖縄に来る(厚木の途中)。9月2日ミズリー艦上で日本政府の降伏調印。7日嘉手納(旧越来村森根)にて南西諸島守備軍の降伏調印一宮古島から納見敏郎中将、奄美大島から加藤唯男少将、高田利貞中将が列席。10月南洋からの引き揚げが開始。インヌミ収容所が臨時開設。難民収容所の住民が帰郷をはじめる。1 946年(昭和21年)10月22日民政府、軍政府に北谷の移動要請(上勢頭・越来村山内の一部を居住地許可)この頃上勢頭に先遣隊仮宿舎設置(r北谷町民平和の日」はこれにちなむ)ーiqL

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