北谷町の戦跡・記念碑
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1沖縄戦1945年(昭和20)2月19日、米軍は小笠原諸島に属する硫黄島に上陸し、日米の攻防戦を展開していた。米軍は日本軍の損害を上回りながらもほぼ制圧する。一方、沖縄戦上陸作戦に先立つて、その前年10月3日に策定した沖縄攻略・アイスパーグ作戦にもとつ、いて南西諸島に一帯への空襲を行った。以来、沖縄は、「鉄の暴風Jと形容されるほどの猛攻撃を受けてきた。米軍の沖縄攻略は、アジア太平洋戦争で米軍が3年以上にわたる日本軍との戦争をとおして蓄積してきた陸海空軍のすべての箪事力を総合して、日本の南玄関にあたる沖縄へ一大結集したものである。米軍艦船は約1400隻、上陸作戦兵員は約四万3000人、その補給部隊は約54万8000人、それに対して、沖縄本島の日本軍の兵力は、陸軍が約8万6400名であった。そのうえに、13歳から70代の年配者まで戦場動員しでもわずか約12万名近い兵力で圧倒的優位な米軍に立ち向かうことになったのである。3月26日米軍はまず、県都那覇市の西沖合に浮かぶ慶良問諸島に上陸し、29日には慶良間諸島全域を支配した。この戦闘では、日本軍の強制によって集団死(集団自決)や虐殺事件が起こっている。米軍は沖縄本島上陸前の1週間で撃ち込んだ艦砲射撃は4万発超え、出撃した米軍機は約4000機。4月l日も早朝から、激しい攻撃を行ったうえで午前8時半、上陸用舟艇がいっせいにリーフに乗り越え、沖縄本島中部西海岸の読谷・北谷に上陸を開始した。1時間以内にl万6000人の米兵が沖縄の地を踏んだ。ただちに米軍は北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場占領のために進撃、約3時間では両飛行場を占領した。中(嘉手納)飛行場はその日の日暮れまでには不時着用として使用できるほど修復していた。4月5日頃までには宜野湾村宜野湾以北の中部一帯を占領して、戦闘しながらも早くも軍政を敷いていった。上陸した米軍の主力は、首里方面へ向けて進撃し、一部の海兵師団は海岸線づたいに北上した。伊江島では4月16日に上陸し21日には島を完全に占領した。伊江島は対日戦の重要な前線基地になった。米軍の主力は、4月7日ごろから首里の日本軍主陣地をめざして総攻撃を開始した。首里北方の浦添村前回、宜野湾村嘉数の高地を中心に、一進一退の攻防戦が40日間も続き4月21日、沖縄守備軍、嘉数地区撤退。この戦闘で日本軍は主戦力の8害IJを失った。5月第32軍による首里での防衛戦が繰り広げられるが、牛島司令官は首里を逃れて島の南端の摩文仁へ撤退した。6月中旬頃には、3万人の日本軍と10万人の住民が南部に追いつめられていた。各地で壕を追い出し食料強奪・虐殺・自決の強要、第32軍残存兵力と学徒隊は最後の総攻撃を行いほとんどが玉砕する。6月18日牛島司令官は参謀本部に訣別の電報を打ち最後の軍司令官命令を出した。牛島司令官らは6月22日摩文仁の洞窟で自決し、第32軍の組織的な戦闘は終わったが牛島司令官は、最後の一兵までなお戦闘を続けるように命令していた。7月2日米軍沖縄作戦終了を宣言。8月6日広島原爆投下。9日長崎に原爆投下。1945年(昭和20)8月15日にポツダム宣言を受諾した。天皇終戦詔書をラジオから放送するいわゆる「玉音放送」で国民がいっせいに受け止めていった。日本の15年にわたる侵略戦争は、連合軍の反撃をうけて敗戦となった事実は明らかだ、った。日本で唯一全県的に住民を巻き込んだ地上戦闘を100日余も展開した沖縄戦においては、沖縄県民一人一人がそれぞれの戦争終結の日を迎えたのである。4.13句、辺戸一口伝¥潤水制島4.13~ 偵際大隊上陸~!す島話!1!!凡例一沖縄戦経過集落・収容所ロ道路一避難経路→ー米軍進攻方向避難経路(中部)および収容所19 -

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