北谷町の戦跡・記念碑
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チブガ-付近所在地:北谷町字大村(キャンプ瑞慶覧内)主な遺構・チブガーチブガー(査)11)、別名タメーシガー(玉代勢)11)と呼ばれる湧水の両サイドは、数メートルの崖になっており古い墓が連座している。水辺に近い墓群が戦時中の北谷・伝道・玉代勢集落の人々の避難場所として利用されている。米軍の上陸地域に近かったため2"-'3日で捕虜になり、アラハヌシー(波食窪、海食窪ともいうくびれた地形)や北谷海岸の仮設の捕虜収容所に収容される。町民の証言l タメーシガーがあって、墓がたくさんあった。墓には5"-'6日ほど隠れていたが、4月2"-'3日に銃を持ったアメリカ兵が入ってきた。2 隣近所で協力してチブガーにも避難壕を掘った。3 昭和20年の春、彼岸の頃から空襲が激しくなった。屋敷内にも壕を掘っていた。イーザン山に避難壕を掘っていた。一週間ほどいた。焼夷弾で家も焼かれた。チブガーの大きなフインチ墓に食料や家財を墓に運び込んでいた。瑞慶覧トーガマは700"-'800人ほど入る大ガマであったが、チブガーの墓に戻った。米軍の斥候隊がやってきて、手当たり次第に弾を撃ち込みながら通っていった。翌日、「カマーン、カマーン」と言いながらアメリカ兵がやってきた。始めはアラファヌシーの付近に連れて行かれた。それから野嵩に移され、こんどは前原(旧具志川市)に移動になった。高江洲(旧具志川市)に米軍の病院があり、子は負傷していたので、前原に来てそこの病院で手術を受け弾を取り出した。4 タメーシガーも近かったので、水には不自由しなかった。墓に4"-'5日ほどいた。アメリカの船がいっばいして、海が見えないほどだった。ひっきりなしに照明弾を打ち上げるので、夜も真昼のようであった。ハンビーのあたりは収容所になっていた。復元されたチブガー(2004年2月)チブガーの下流域-18 -

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