北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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-ガマ:洞窟。ほら穴。i洞窟(jl) lイシグーガマ|屋号ウフグスク(大城): 30の北西側にあったガマ。道の補修工事に使うイシグーを取るところだった。-ィシグー・さんご礁などを砕いた細かい砂利。1丘~1チョ一口ーヤマ|(玉代勢)出身で、沖縄には(南陽紹弘禅師)がおンユ長老山。集落の南側の山。。んざいしゅうみまヲしんじはじめて臨済宗妙心寺派を伝えたと言われる僧ちゃたんちょうろう俗に北谷長老と呼ばれていた。その僧をはじめとして、ショーインの住職を葬ったところだと言われている。旧暦9月15日に長老祭が行なわれていた。タメーシり、-ん斗川J-そ,木ntヨM谷LゃLLコノち『寸イのγ」《長老山》口ーヤマでは、が行なう三大祭りのlつである。-北谷村の三大祭り:(1)北谷長老祭②海神祭③野国総官祭ずけらん現在、チョ一口ーヤマはキャンプ瑞慶覧内となっており、長老祭せきひは基地内で行なわれている。チョ一口ーヤマ入口の石碑や階段は、-キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター):沖縄本島中部にある米海兵隊基地。-ウコール:御香炉。線香を立てる炉。戦前のままである。また、チャタン(北谷)やリンド一(伝道)きよかえおが合前日所もある。米軍から立ち入り許可を得て、拝みに行っている。タメーシ(玉代勢)のチブガーのウコールも、戦後の一時期はチョーせんざ口ーヤマに遷座してあったが、現在は元の場所に戻されている。の|ヒージャーイー|屋号ハンタ(繁田): 23の西側にあった。上の方にヒージャーの水-ヒージャー:樋川。口が2つあった。平坦地で、遊び場所だった。ほどのヒラマーチューがあった。ガジマルや大人が4~5人で抱える中は空洞の老木だった。-ヒラマーチュー:平松。-マーイサー・集落の広場などに置いである大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。.ムラヤー:集落の集会所。ヒージャーイーにはマーイサーが置かれていたが、後にムラヤーに移された。圃トウーティークー:士帝君。中国起源の土地関係の神。沖縄本島では農業の神とされる。クガニを船でま川ツたあ。の一こmmTIhu いぱ波たて乱残つれ札村あらM谷に幻紀州読倒が西一のクω一イ城テ大一fl、内ノap アラニモー、|アランモー|屋号ウフグスクλノ一二一口4b シ」モフナウクイをする場所でもあり、-フナウクイ・見はらしのいい場所から、旅に出る人の安全を願い、船を見送ること。見送ることができた。1池沼. |ナービグムイ|タマタのところにあったクムイ。木が欝蒼としていて怖いとこ-クムイ:池。沼。-マジムン・魔物。化物。精。ろだった。マジムンがし1ると言われていた。けいびんてつどうようすいほきゅうせ軽便鉄道の用水補給にも利用された。現在もコンクリートで堰き84

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