北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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目谷間|タマタ|集落の北方向に行ったところにあった。アカギが生えており、現在でも残っている。タマタの下にはナービグムイがあった。1IJ¥ハjレ名ク。ソーンマイー|イチャバルヤードゥイ(板原屋取)の南側にあった平坦地。大きな広っばだった。名前の由来は不明。i村道イシンダミチ|かでな石平道。馬車がすれ違いできるほどの道幅があった。嘉手納方べんり面へサトウキビを運ぶのに便利な馬車道だった。コーラルで舗装され、ローラーで敷き均されていた。ちんぎんIJ (,吻う話者によると、1日35銭の賃金で補修作業が行なわれていたが、タメーシ(玉代勢)集落の人たちは補修作業はしていないと言う。終戦直後まで道は残っていた。|クシミチ|ケンドーから屋号マチャーシーシグヮー(マチャー末吉小): 57あたりまでの範囲を言う。話者によると、その先からはイチャパルミチと呼ぶかもしれないと言う。クシミチの補修工事はタメーシ(玉代勢)集落の人たちで行ない、ばっきんその作業に出ないと罰金となった。11馬車道|ナカミチ|集落の真ん中を東西に走る道で、ムラヤーからヒージャーイーまはんいとおでの範囲を言う。荷馬車が通れるぐらいで、6尺(1. 8 m)以上の道幅があった。ワラビジナをする場所でもあった。1坂道急な坂道だったので、馬車は通れなかった。道幅は9尺(2.7m) ぐらいだった。チャタン(北谷)へと続く道。83 《間取り調査風景》-コーラル:サンゴの死骸が小石や砂利になったもの。-ワラビジナ:子どもたちによる綱引き。

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