北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
82/504

(玉代勢)チャタンダスクの南東側に位置していた集落。北西側はリンドー(伝道)、西側はチャタン(北谷)に隣接していた。戸数76軒で、そのうちカーラヤーは16軒だった。やリンドー(伝道)タメーシ《間取り調査風景》とともにチャタンサンカと(北谷)チャタン-カーラヤー瓦ぶきの家。イーサン力。玉代勢、伝道は同じ三箇。と表現する。ほとんどの行事を、この3集落合なかでも、寅年に行なわれるウーンナが有名でドゥーリンドーヤタメーシ、(~t谷、「チャタン、ティーチ。称される。ll」。。たつい1て。心つチ。な一つ「付イ1でテ体同ククル-ウーンナ:大綱引き。-向上会集落の産業を向上させるための会。優秀な人には賞状や商品が与えられた。現在の産業まつりのようなもの。イチャバルヤードゥイ(板原屋取)、ヤジヤードゥイ(屋宜屋取)、(仲山屋取)を含めて、字玉代勢を形成していそのなかでも、集落の東側に隣接していたイチャバルヤードゥ(玉代勢)た。イ(板原屋取)は、向上会などを一緒に行なっていた。集落の真ん中を走る道、屋号メーウフグスク(前大城):31から屋号アラカチグヮー(新垣小): 49までの道を境にしてイーンダ力リとシチャンダ力リに分けられていた。ある。ナケーマヤードゥイと関わりが深く、運動会やタメーシ-ワラビジナ:子どもたちによる綱引き。組ミのグき一とイのでナ恥係ジ机関ビ札縁ラ肘血ワれりあっnL 必わグ々ハ/サこれは、分けである。また、とシチャグミに分かれていた。-サーターグミ:製糖の作業をする組。-ニングヮチャー.旧暦2月に行なわれる行事。集落や組単位で酒宴を開き、余興をして楽しむ。-ユビダー:底なし因。深因。・チヤギー:田んぼの真ん中に盛り土をして畑としたもの。む水汲むを汲水てうめ使初湯旦産元一日ンガ。ミフ戸カン井ワ•• ニングヮチャーのときの組分けでもある。集落の西側、クシミチの南側をムラウチと言う。側、クシミチの北側はクシヌヤードゥイグヮーと言う。イモ主業は農業で、芋やサトウキビなどを作っていた。ヤギーも多くあり、米も作っていた。井戸は各家にあった。屋号ナカマ(仲間): 5には、レンガ造りの水タンクがあった。集落の東端には、タメーシ(玉代勢)のンプガーがんたんくであるチブガーがあった。元旦のワカミジはチブガーから汲んでムラウチの北東ユビダーやチ-サーターヤー:製糖小屋。・ムラヤー:集落の集会所。・北谷長老:沖縄に初めて臨済宗妙心寺派を伝えたと言われる僧。玉代勢の出身で、俗に北谷長老と呼ばれた。・エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。・シーシモーラシ:獅子舞。・北谷村の三大祭り:①北谷長老祭②海神祭③野国総官祭・ガンヤー:禽を納めておく小屋。いた。共同のサーターヤーが、ムラヤーの北側に2か所あった。東側がイーグミ、西側がシチャグミのサーターヤーであった。個人のサーターヤーも1か所あり、屋号ハナウチ(花打)のものであった。集落の西端に、北谷長老ゆかりのジュショーインという寺があっだんかた。チャタンサン力の人たちが檀家である。エイサーやシーシモーほうのうぶようジュショーインで奉納舞踊をしてから出発していた。ジュショーインの南東側には、北谷長老が葬られたチョ一口ーヤちゃたんそん旧暦9月15日には、北谷村の三大祭りの1つであるラシなどは、るれわなこ-74/ノF1つがあU祭がわ老マM長メーグスクジマのところにガンヤーがあった。チャタンサンカで78

元のページ  ../index.html#82

このブックを見る