北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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だった。庭でエイサーやシーシモーラシをやったエイサーやシーシモーラシはジュショーインから出発し、屋号ヌンドゥルチ:239とムラヤーを回った。ジュショーインはチャタンサン力の所有で、チャタン(北谷)4、ひょうぶんたんタメーシ(玉代勢)2、リンド一(伝道)1の割合で費用を分担してねんきほうよういた。葬式、年忌、法要などはジュショーインの住職にお願いすきたたまじんじようる。住職は、昭和初期には片岡先生という方で、北玉尋常高等小学校の教師でもあった。そのため、ジュショーインの部屋を使って、法話や補習などを行なっていた。中学校受験をする生徒が受験勉強をしていた。片岡住職が移動になったあと、高江洲恵信氏が住職となった。戦後、高江洲氏が亡くなった後は、喜瀬氏が住職を継いでいる。1獅子屋愈シーシヤー獅子舞の獅子を置く小屋。ムラヤーと同じ敷地の東角にあった。ジューグヤ旧暦7月や、旧暦8月の十五夜のときなどに獅子舞を行なった。屋号ヌンドゥルチ:239、ジュショーイン、ムラヤーの順に回っていた。獅子舞は昼に行なわれ、夜にはムラアシビがあった。11集会所合|ムラヤ-1チャタン(北谷)の集会所。ムラウチの真ん中にあった。平屋でいたば瓦ぶきだった。床は板張りで、アマハジや雨戸もあった。ムラヤーと隣接してシーシヤーが建ててあった。ムラヤーの前の広場で、フェーヌシマの練習をしていた。フェーヌシマは、ウーンナやムラ芝居のときの余興として行なわれていた。馬場。ムラウチの西側にあった。ケンドーの途中がンマイーになっていて、そこだけ倍の道幅になっていた。ンマスープはしていなかったが、アブシバレーのときにンマイーでハルヤマスープを行なっていた。したねもみ普段はニクプクを敷いて、稲や種籾などの干し場などに使っていた。73 圃エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。・シーシモーラシ:獅子舞。・ムラヤー:集落の集会所。-北玉尋常高等小学校:北谷尋常高等小学校の分教場であった。大正3(1914)年に北玉尋常小学校として開校し、大正6(1917)年に高等科を設けて北玉尋常高等小学校となった。-ムラアシビ:歌・三昧線-踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸-娯楽。-ァマハジ:軒の差し出した庇。・ウーンナ大綱引き。《ブエーヌシマ》-ンマスープ:馬の飾りや歩き方の美しさを競う0・アブシバレー:旧暦4月頃に行なわれる害虫よけの行事。・ハルヤマスープ:耕地や農作物の優劣を集落同士で競う行事。.ニクブク:藁縄で編んだむしろ。

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