北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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生えていた。校庭には他にデイゴ、アカギ、ガジマル、カシノキ(樫の木)といった木が植えられていた。校庭の南東側には大きなガジマルが生えていて、校庭の半分近くが影になっていた。昔はこのガジマルのあたりまで海で、ガジマルはフナチナジボーだったと言うふひざみずぴた言い伝えがあった。大雨が降ると、学校の周りは膝まで、水浸しにたかとはぱとなった。また、校庭は砂場になっていて、高跳びゃ走り幅跳びがでつきやまきた。キタタマショーガッコーになる以前は、校庭の真ん中に築山かいちくくずがあったが、校舎を改築したときに崩した。校庭の西側にはキカイそなボーが4~5基備えられていた。校舎は瓦ぶきだった。コの字型をしており、北側が高等科の棟で、東側が1・2年生の棟、南側が3・4年生の棟だった。高等科のつきやま棟の北側が校長室だった。校長室のならびに宿直室、築山、池などがあった。キタタマショーガッコーができる前は、このあたりにバンジュがあったという。ケンドーの下の方の田んぼと畑を借りて農場にしていた。高等科の先生が畑を耕していた。たまぶたいいしぶたいやせん戦時中は日本軍の球部隊・石部隊の野戦病院として使われたために、大きい家やムラヤーを分教場にして、学年ごとにわかれて授業を行なっていた。戦後は、現在の謝苅区の方に移った。最初は昭和22 (1947)年に山をならしてコンセットの校舎を建てた。その後、茅ぶきの校舎、瓦とトタン屋根の校舎、コンクリート校舎へと建て替えられていった。1工場届|ハツドーキ|ウフドーパルにあった製糖工場。キヨードーセートーとも言うが、そうおん普通はハツドーキと呼んでいた。騒音が大きかった。チャタンサンかんり力の人々が使っていた。サンギヨークミアイが管理していた。話者によると、使用料というのはなく、サンギヨークミアイがサトウキビを買い取るというかたちで運営していたのではないかと言う。もともと、チャタン(北谷)には6~7軒のサーターヤーがあった。サーターヤーで製糖する以外に、嘉手納の製糖工場にサトウキビを運んで製糖することもあった。ハツドーキができてからは、サーターヤーは使われなくなった。1製糖小屋⑫ lサーターヤー|製糖小屋。ハツドーキのところには4軒のサーターヤーが集まっ70 -フナチナジボー:船をつなぐ棒。-キカイボー・鉄棒。-球部隊:牛島満中尉の率いる第32箪の通称。・石部隊:第62師団独立歩兵第1 2大隊の通称。・ムラヤー:集落の集会所。-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。

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