北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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こくぱぐみはつぱニわしていた頃に、国場組が発破をかけて壊した。トンネルの土台の平たい石は戦後まで残っていた。→桑江ヌ前屋取のクェーエキ、セーマイジョを見よ。沖縄県営鉄道嘉手納線の北谷停車場。チャタンエキとも言う。いす木製の屋根がついていた。椅子もあったため、青年たちの遊び場所ともなっていた。あさとエキダヮーから朝6時30分に出て、1時間半ぐらいで安里駅に着いた。料金は片道36銭だった。学生用の4か月分の定期は1 0円50銭した。もともとは田んぼで、その中にレールを敷くため、工事が大変だった。土を盛つであるので、ちょっと高くなっている。1鉄橋冒|テッキョー|かでな沖縄県営鉄道嘉手納線の鉄橋。シルヒージャーに架かっていた橋。マペ一示J一方J一設一ヨ一姉一生公一秋一きんゅうきシンヨークミアイ、クミアイ、クミエーとも呼んでいた。金融機かんせいまいけいえい関のようなものであった。精米作業もしており、経営するセーマイジョがクェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)にあった。サンギヨークミアイの建物は、石垣に固まれた二階建てのカーラきゅうじゃとヤーという造りだった。給仕が1人雇われていて、事務仕事をしていた。昭和15~16(1940~41)年頃には閉鎖していた。→桑江ヌ前屋取のセーマイジョを見よ。1学校命|キタタマショーガッコー|きたたまじんじよう北玉尋常高等小学校。のちの国民学校。男女共学で、一学年3~40名ぐらいで、高等科は30名ぐらいだった。先生方はチャタンかしやか(北谷)や近くの集落の貸家を借りている人が多かった。なかにはきしゃばつうきん喜舎場から自転車で通勤してくる先生もいた。教頭先生は馬で通勤していた。しきち学校敷地はルガイ(リュウゼツラン)で囲われていた。ケンドー沿いには高さ1mの塀が作られていた。校門はケンドーに面してりょうわき2か所あり、南側の門が正門だった。門を入ると両脇にアカギの木が69 -沖縄県営鉄道嘉手納線:嘉手納・野国・平安山・桑江・北谷・大山・真志喜・大謝名・牧港・城間・内問・安里・与儀・古1皮蔵・那覇の15駅があった。-カーラヤー:瓦ぶきの家。-北玉尋常高等小学校:北谷尋常高等小学校の分教場であった。大正3(1914)年に北玉尋常小学校として開校し、大正6(1917)年に高等科を設けて北玉尋常高等小学校となった。

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