北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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だけの簡単な造りだった。|シルバシ|シルヒージャーに架かっていた石橋。橋から水面までは3mぐらいだった。子どもたちが、飛び込んで遊んでいた。橋の石材はユろめんンタンジャー石で、橋の路面にあたるところはブールに使うようらんかんな、畳一畳くらいの広さの平らな石だった。欄干は高さ1尺(0.3m)、幅1尺(0.3m)で、やはりユンタンジャー石でできていた。|ティーチバシグヮー|かくずケンドーに架かっていた橋。ローラーで橋が崩れる事件が起きてからは、ローラーバシと呼ばれるようになった。|ローラーバシ|かケンドーに架かっていた橋。スーガーの南側で、クシユバーからはいすいの排水の上に石橋が架けられていた。もともとはティーチバシグヮーと呼ばれていたが、昭和11 (1936)年12月8日に、ジャーガルミチの工事に使われたローわた〈ずけんぷつラーが橋を渡ろうとしたときに橋が崩れてしまい、ローラーを見物に来ていた子どもたちが巻き込まれて数名の死傷者が出た。この事件のあとからローラーパシと呼ばれるようになった。ちやたん現在の北谷交差点のあたりである。→謝苅屋取のジャーガルミチを見よ。|サーラバシ|イートゥシガーラの下流で、ケンドーに架かっていた橋。iトンネルa Eチャタントンネル|チャタン(北谷)とクェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)のちが間にあったトンネル。馬車がすれ違いできるくらいの幅があった。話者によると、パスも通れたので、幅5m以上で、高さは2m20""いんLょういしづ5 0 c m、長さは長かった印象だと言う。セメントか石積みだった。トンネルの中はj京しかった。クェーエキの近くにはセーマイジョがあったため、そこまで馬車で米を運んでいたが、チャタントンネルのあたりは高地になっていたので、人手が2人分必要だった。チャタントンネルの上のE陵などでモーアシビをしていた。2""やらけんせつ3人で座れるような場所が2""3か所あった。屋良飛行場の建設を68 -ユンタンジャー石:読谷の海岸から掘り出される石。.ブール:便所。石で囲んだもので、中に豚を飼い、糞は豚の飼料となった。-モーアシビ:農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線・歌・踊りなどをして楽しむ。・屋良飛行場:昭和19 (1944) 年に日本陸軍が建設した飛行場。中飛行場。米軍に接収され、現在の嘉手納基地となった。

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