北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
69/504

9月15日に変更された。長老祭では何度かムラ芝居も行なったみむじんとうなんが、それを観るために集落内が無人になってしまい、盗難があったせいちり、人が集まるのでチョ一口ーヤマの整地が悪くなるという理由で、キタタマショーガッコーに場所を移してやるようになった。ムえんもくラ芝居の演目は「阿麻和利」・「八重山節」・「八重瀬万歳」・「ミルク節」・「加那ヨ一天)11 J・「双児物語」などで、演じるのはすべてチャタン(北谷)の男性だった。せきυちょうろうさい現在、入口にある石碑や階段は、戦前のままである。長老祭も毎年、旧暦9月15日に行なわれている。|フナウクイモー|なは那覇から出る船のフナウクイをした圧。チャタングスクの西側けんせつ崖の麓にあった。戦後の1号線(現在の国道58号線)の建設によってなくなってしまったので、その代わりに崖の上にウコールを置いである。クェーヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)の聞取り情報によると、チャタングスク内の北谷モーシーの墓とスーガーとの間あたりにあったと言う。ちょっと小高いEになっており、そこで女性たちが太鼓を叩いたり、煙を出したりして、航路の無事を祈っていた。主ぼうせきに紡績に行く人たちを見送っていた。昭和12 (1937)年以降はフよゅうナウクイをする余裕はなくなっており、あまり行なわなくなった。|イーザチンヤマ|屋号イーザチン(上座喜昧): 238とタメーシ(玉代勢)の屋号クェードゥンチ(桑江殿内)の間にあった山。周囲から4mくらい盛り上うっそうしげさんりんかげがっていた。木が欝蒼と茂っていて、近隣の家が影になるほどだっさびた。昼でも暗く、寂しいところだった。話者によると、墓はなかったが、戦時中は防空壕を掘ってあったかもしれないと言う。|イーヌアタイ|みお集落を見下ろせる小高いE。メーグシクジマの西端のあたりを言う。土質はニービだった。タマガインジドゥクルーだったので、旧暦8月10日のトゥカウガミのときにはタマガイを見るために、青年たちがこの山にのぼっていた。集落内にはマータク(竹の一種)を持った青年たちがいて、タマガイが上がったら、イーヌアタイから集落内に合図しあって、どこの家からタマガイが上がったかを確認していた。65 -ムラ芝居:集落の人たちが演じる芝居。《長老祭》-フナウクイ:見はらしのいい場所から、旅に出る人の安全を願い、船を見送ること。圃ウコール:御香炉。線香をたてる炉。-北谷モーシー・絶世の美声の持主と言われる伝説的な女性。-紡績:大正・昭和期に盛んだった阪神や中京の製糸紡績工場への出稼ぎ。-ニービ:赤〈ざらざらした堅い土質。-タマガインジドゥクルー:タマガイを見る場所。-タマガイ:凶兆。火の玉が家の上に高く上がったりすること。

元のページ  ../index.html#69

このブックを見る