北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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|ハツドーキミチ|イシンダヤードゥイ(石平屋取)に向かう道。ミーミチとも言う。カ、〈ちょうもともとあった道を拡張した。その工事のときには、チャタンにんそくぽLゅう(北谷)でも人足の募集が行なわれた。|メーベーミチ|ハツドーキミチの一部ハツドーキミチのうち、屋敷のある地帯にかかっている部分だけを言う。屋敷のある地帯を過ぎたあたりからは、ハツドーキミチ、ミーミチ、サーターヤーミチなどと言う。1生活道aメンターミチ|メンターにある道。2本あり、1本は屋号シーサーニー:77のところからのびる道。もう1本は、さらに東側にあり、2本は南北にほぼ平行に走っていた。1坂道|アラビラー|ハツドーキミチと交差する畑の中の道から、タメーシ(玉代勢)のナカミチに通じる坂。タメーシ(玉代勢)の屋号ウフグシク(大城)までが坂になっていた。1鉄道|キシャミチ|かでなしんすいも沖縄県営鉄道嘉手納線の線路。大雨でも浸水しないように、盛りっちまいどし土や埋土した上にレールが敷かれていた。1日に1回は1両のガソリンカーが走っていた。周囲に柵がついていたので、外からぶらさがって乗ることができた。戦争で石炭の質が悪くなってからは汽車の速度が遅くなっていた。まきみなとひとけ現在の牧港あたりは、ワイトゥイになっていたために人気がなく、フェーレーが出ると噂されていた。1丘~1チョ一口ーヤマ|チータチジューグニチ一日と十五日には、チャタンサン力の小学校5~6年生が当番でせいそう清掃に入っていた。ちゃたんそん北谷村が行なう三大祭りのーっとして、長老祭を行なっていた。もともとはチョ一口ーヤマでの祭りは、旧暦8月15日に行なってのくにそうかんさいいたが、野国総官祭と日程がかちあってしまうので、長老祭は旧暦64 《聞取り調査風景》-沖縄県営鉄道嘉手納線:嘉手納・野国・平安山-桑江-北谷-大山・真志喜-大謝名・牧港・城間・内問・安里・与儀・古波蔵・那覇の15駅があった。-ワイトゥイ:切り通し。山などを切り開いて作った道。・フェーレー:追いはぎ。-北谷村の三大祭り:①北谷長老祭②海神祭③野国総官祭

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