北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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えんがいひんしゅうたが、そこは海が近く塩害が出るため、ヒジグミという品種しか植えられなかった。イノー[※編注:P23 r戦時中の北谷ヌ前屋取」の地図に記載]シルヒージャー河口からアラファヌシーのやや南のあたりまでさんごLょうひがたの珊瑚礁。幅の広い干潟で、ほとんど砂地だった。アーサ(ヒトエかいそうグサ)やナチョーラ(マクリ)などの海藻が生えていた。ところどがんばんよころに岩盤が出ている。塩などを作った。戦前はスクが寄ってきていた。夜はイジャイをしてタコなどを取る。しかし、話者によると、危ないとか畑仕事が忙しいという理由で、海に行くことを嫌う人が多く、イジャイは好きな人だけが行っていたと言う。あちはチャタンイノーは、現在の安良波公園の北側3分の2くらいにあたる。i干瀬ウランダビシ|[※編注:記載した地図の範囲外にあるため、地図上には記載していない]話者によると、場所はよくわからないが、名前は聞いたことがあると言う。名前の由来はわからない。11県道|ケンドー|とおちが県道。チャタン(北谷)の西側を通っていた道。パスがすれ違いあらかきできるほど広い道だった。パスは一日2往復走っていた。新垣パうんこうスが運行していたが、いつも乗客がいっぱいで、なかなか停まらなかでなかった。ハツドーキができる前までは、製糖の時期になると嘉手納製糖工場にサトウキビを運ぶための荷馬車がたくさん並んでいた。うけおいにんにんそくケンドーの補修工事は集落ではやらなかった。請負人がいて人足を集めて行なっていた。ちんタメーシ(玉代勢)の聞取り情報によると、補修工事の一日の賃ぎんかんと〈金は35銭で、監督はヤマトンチューだったと言う。ちやたんだんき現在の北谷交差点あたりは、ケンドーとその下の畑との段差が1丈(1.8 m)ほどもあった。11村道|クシミチ|とおタメーシ(玉代勢)の後ろを通る道。タメーシミチ、デインドーずけらんミチ、ジキランミチともいう。リンドー(伝道)を抜けて瑞慶覧に向かう道。63 -ヒジグミ:稲の一種で、のぎが長いのが特徴。-スク:アイコーの幼魚。・イジャイ:いさり。火を使う、夜の漁。-新垣平尾パス:戦前の乗合自動車。那覇~名護聞を運行。-嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。-ヤマトンチュー:日本人。沖縄に対して日本本土の人を言う。

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