北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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(小エビ)などがよくとれた。マタジ一帯の海岸はアダンが生えていたが、護岸が作られるときつぶに潰された部分がある。護岸ができてからはモクマオー(トキワギョリュウ)が植えられていた。ひ戦前は何もなかったが、現在は碑が建てられており、屋号ヌンおがドゥルチが拝んでいる。|イ-トゥシI[※編注:P37 r戦時中の石平屋恥の地図に記載]サーラガーの上流の傾斜地一帯。イートゥシパルとも言う。急な傾斜地にたくさんの墓があった。チャタン(北谷)やチャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)の人の墓が多かった。戦時中、チャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)の人たちは、このあたりにひなん避難した人が多かった。→北谷ヌ前屋取のイー卜ゥシを見よ。|メーグシクジマ|ムラウチからクシユバーをはさんで北東にある一帯。11軒の家とガンヤーがある。だえんけいせきひメーグシクジマの入口に細長い、楕円形の石碑が立っていたが、きざっ吉やま何も刻まれていなかった。直径1~1.5m、高さ1m弱の築山もひあった。話者によると、マーイシの碑だったかもしれないと言う。|メーヌハルー|サンゴーの一部と力ニクの東側一帯。このあたりの家は、屋号メーヌハルーヤマガー(前ヌ原山川)、屋号メーヌハルーイリーグワー(前ヌ原伊礼小)のように、屋号にメーヌハルーとついていることが多い。|ヌールジー|チャタングスクのなかにヌールジーと呼ばれる土地があり、畑とせいちりの7き附うおうふはいして整地されていた。チャタン(北谷)のヌールが琉球王府から拝領した土地と言われている。もともとヌールは屋号ヌンドゥルチの家から出ていたが、ヌールが嫁に出るときにヌールジーを持っていったので、屋号クシイサヤグワー(後伊佐屋小)が持ち主になっていた。~水田地帯lチャタンターブックヮ|集落の東側に広がっていた田んぼ地帯。西側にも田んぼは多かっ62 《マタジ》-マーイシ黒色の堅い石。-ヌール:神女。

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