北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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あとビ墓であった。後ろの方には石を掘り出した跡があった。チャタン(北谷)の発祥の地と言われ、チャタンシジーに住み着でんしょういた5家族の伝承がある。話者によると、戦前、すでに屋敷跡はわからなくなっていたが、「どこそこには誰々の屋敷があった」という:おIまことは覚えられていたと言う。1小ハjレ名lクシユバー|へだムラウチとメーグシクジマを隔てる深田。メーグシクジマの南ぷんすい西側とイリメンターは、ポトンからの水がそれぞれに分水されていまるたたため、ユパーとなっていた。1~2月頃にバナナの木などの丸太しずあしばを沈めて足場にしていた。|キシャミチヌウィ-1キシャミチの東側一帯を言う。てんざい田んぼとサトウキビ畑が点在しえんカ九、ていた。キシャミチヌシチャよりは塩害が少なかった。|キシャミチヌシチャ|えんがいキシャミチの西側一帯を言う。海が近いので塩害があり、サトウひんしゅうキビ畑はなかった。ほとんどが田んぼで、ヒジグミという品種を植えていた。匪/~Iカンタパルとも言う。へいたんソートゥクパルをのぼり切って少し平坦になったあたりを言う。畑地が多かった。|ナカイサーラ|ナカイサーラバルともいう。ウフドーバjレのf麦ろで、ユナフイパルの一部を言う。土質はマージだった。山になっているところがダイあり、麓の方に北向きの墓があった。高台になっていて涼しく、大根がよくできた。|メンタ-1チャタン(北谷)の屋敷地の南側一帯。メンターグヮーとも言う。匡互ヨはいすいチャタンターブックヮからの排水が海に流れ込むところ。小さいまんちょう石垣があった。満潮になると水がいっぱい入ってきた。干潮になると潮が引き、そこに田の水が流れ込んでいた。干潮時はセーグワー61 《聞取り調査風景》圃ユパー:泥が深い田んぼ。-ヒジグミ:稲の一種で、のぎが長いのが特徴。-マージ:赤土質の土壌。マージでできた芋は小さいが美味しい。

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