北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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ヌメ一ヤードゥイ(桑江ヌ前屋取)の風呂屋に行っていた。風呂に使くわう水は、大きな井戸から汲み上げて沸かしていた。利用者は、主にチャタンサンカの人たちだった。週に1度ぐらい入りに行っていた。桶は備え付けのものがあった。風日屋は多くの人たちが集まるので、色々な話が聞けるところだった。話者によると、戦時中に廃業していたと思うと言う。サーターヤーが数か所あったが、牛馬を借りたり、その牛馬を追ってサーターグルマを回すのは大変だ、った。サーターヤーで辺りかでな理できない分は嘉手納の製糖工場へ運んでいた。その後、ハツドーキができて、サーターヤーはあまり使われなくなった。ガンヤーはメーグシクジマの西端にあった。チャタンサンカの人が使う場合にはお金はとらなかった。チャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)はここのガンを借りていた。ガンは解体して力、おさそうかンヤーに納めであり、喪家に持っていってから組み立てる。棺を墓に運んだあと、ガンは墓で解体し、ガンヤーに持って行って納めた。話者によると、このガンは首里からの払い下げという言い伝えがあったと言う。屋号ユーピンチク(郵便局): 145の北隣にあったウククヌメーヌモーターワーが青年たちの遊び場所で、マーイサーを置いてあった。大・中・小の3つあり、大きいものは10 0斤(60kg)ぐらいあった。[集落で行なわれる主な年中行事]・旧暦6月<綱引き>夜8時ぐらいから行なわれていた。集落の真ん中を東西に走る道によって2つに組分けされ、南側がメンダカリ、北側がクシンダカリである。頭に色違いのマンサージを巻いて、区別していた。また、クシンダ力リには、タメーシ(玉代勢)やリンドー(伝道)のほか、クェー(桑江)、イリ一(伊礼)、ハンかせいザン(平安山)などからも加勢が来ていた。対するメンダカリには、チャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)や伊佐などから加勢力f来ていた。.<ウーンナ>:寅年にはチャタンサンカ合同でウーンナが行なわれる。昼に行なう大綱引きで、300年の歴史があると言う。戦争ふっかつで中断したものの、戦後、昭和49 (1974)年に復活し、その後も昭和61 (1986)年、平成10 (1998)年の寅年に行なわれている。せっしゅうずけらん集落域は米軍に接収され、キャンプ瑞慶覧内となっている。現在ちゃたんの北谷交差点南東側、米軍のモータープール一帯である。そのため、人々は他集落へ分散して暮らしている。しかし、現在でも屋号きょうゆうかいヌンドゥルチや郷友会を中心として、諸行事を行なっている団結の強い集落である。55 -サーターヤー:製糖小屋。・サーターグルマ:サトウキピを圧搾する装置。・嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治4 5 (1912)年創業。・ガンヤー:禽を納めておく小屋。-ガン:禽。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。-マーイサー:集落の広場などに置いてある大小の堅い、丸い石。青年たちが力試しをする。-マンサージ・はちまき。綱引きのときなどの装束。ターバンのように頭に巻くもの。《五月ウマチー》・キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター)・沖縄本島中部にある米海兵隊基地。

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