北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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チャタン(北谷)北谷町域西側、チャタングスクの南側に位置した集落。北東側にはリンド一(伝道)やタメーシ(玉代勢)があり、南側にはチャタンヌメ一ヤードゥイ(北谷ヌ前屋取)があった。タメーシ(玉代勢)やリンドー(伝道)とともに、チャタンサンカと称される。ほとんどの行事を、この3集落合同で行なっていた。なかでも、寅年に行なわれるウーンナが有名である。戸数239軒で、そのうちカーラヤーは64軒であった。普通、おもゃな母屋にはダキガヤ(リュウキュウチク)、納屋やブールなどにはモーカヤ(マカヤ)を使用していた。フクギで屋敷を囲っており、夜の路地は真っ暗だった。道をたどるために、空を見上げながら歩いていた。旧制度では区長は1人だったが、昭和13 ~ 1 5 (1938 ~ 40) 年頃に集落をイチゴー(一号)、ニゴー(二号)、サンゴー(三号)の3つに分けて、それぞれに区長を置くようになった。話者によると、行政が配給や供出がしやすいように、適当に分けたのではないかと言う。主業は農業で、米、芋、サトウキビなどを作っていた。チャタンターブックヮと言う、県下に知られた田んぼ地帯があった。農業以外にも大工、石工、荷馬車引き、客馬車引き、公務員、事ひっ己う務、筆耕など、さまざまな職業を持つ人たちがいた。また、ケンドー沿い、ンマイーのところには、診療所、郵便局、風呂屋、商庖、菓子屋、自転車屋、散髪屋、牛乳屋、馬車宿などが立ち並んでいた。診療所が1軒、ンマイー沿いにあった。ヤマシロビョーイン(山城病院)、タイショーイイン(大正医院)、ミヤギビョーイン(宮城病院)など、医師が変わると病院の名前も変わっていた。そのため、普段は屋号であるイサヌヤー(医者ヌ屋): 196と呼んでいた。家の前には医師が乗る人力車が置いてあった。雑用や事務を兼ねた集やと金人が雇われており、診療費はその集金人が各家をまわって徴収していた。また、郵便局もケンドー沿いに1軒あり、屋号ユーピンチク(郵便局): 145の家が郵便局だった。屋根は瓦ぶきで、表が郵便局、裏手が住居という造りだった。配達人は2人ぐらいで、自転車で配達していた。配達人は給料制だった。ポストは郵便局前にあり、近くの人は直接入れに行ったが、遠い人たちは配達人に託すこともあった。集配物はクェーエキで貨車に積み下ろしをしていた。郵便貯金も扱っていた。ンマイーの北端にはユーフルヤーが1軒あり、屋号タンナファ(玉那覇): 208が営業していた。この風呂屋ができる以前はクェー54 《ウーンナ》-ウーンナ:大綱引き。-カーラヤー・瓦ぶきの家。・アール:便所。石で囲んだもので、中に豚を飼い、糞は豚の飼料となった。-ターブックヮ:田んぼ。田のたくさんあるところをいう。地名としては、チャタンターブックヮ(北谷たんぽ)、ハニジターブックヮ(羽地たんぽ)など。《間取り謂査風景》圃ユーフルヤー:風呂屋。

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