北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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なかくすくそん村と中城村にまたがっていたので、北谷側のイシンダだと区別して言う必要があるときにはチャタンイシンダ(北谷石平)と表現していた。行政的にはメ一ヤードゥイとイリヤードゥイの全部と、アガリヤードゥイとクシヤードゥイの一部が北谷村に属していた。チャかよタンイシンダの子どもたちは、北谷の小学校に通い、運動会もチャタン(北谷)の選手として参加していた。地番は、戦前は北谷、戦後は北前に含まれる。|ナカグスクイシンダ|なかぐすくそん中城石平。イシンダヤードゥイ(石平屋取)のなかで、中城村に含まれていた地域を言う。イシンダヤードゥイ(石平屋取)は北谷村と中城村にまたがっていたので、中城側のイシンダだと区別して言う必要があるときにはナカグスクイシンダ(中城石平)と表現しきたなかていた。行政的にはクシヤードゥイのほとんどが中城村(現・北中〈すくそんずけらん城村)瑞慶覧に、アガリヤードゥイのほとんどが中城村(現・北中あだにや城村)安谷屋に属していた。11河)11lイハガー|集落の北側、タメーシ(玉代勢)に向かつて流れ、チャタン(北すいげんずけらん谷)のターブックヮに流れ込んでいた川。水源は瑞慶覧のメーヌカーであった。じんち話者によると、昭和19 (1944)年頃、陣地造りをしていた日本そばかそう軍の兵士が亡くなったときに、この川の側で火葬していたのを見たと言う。|フテンマガーラ|ぎのわんそんなかぐすくそんきょうかいか普天間川。宜野湾村と中城村の境界だった。石橋が架かつており、橋から水面までは15~20mぐらいあった。夏場には子どもたちが橋の上から飛び込んで泳いだりしていた。話者によると、以前はものすごい水量だったが、現在は少なくなっていると言う。現在の北谷町北前あたりに流れていく。11道|ケンドー|県道。集落の東側を南北に走っていた道。42 -ターブックヮ:田んぼ。田のたくさんあるところを言う。地名としてはチャタンターブックヮ(北谷田んぼ)、ハニジターブックヮ(羽地田んぼ)などが有名。《フテンマガーラ》

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