北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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号シーサーニーへと続いていて、イシンダヤードゥイ(石平屋取)の子どもたちの通学路だった。その途中にはチャタン(北谷)のハツドーキがあった。話者は、子どもの頃にハツドーキに入り込んで、砂糖のつまみ食いをしたことがあると言う。ハツドーキはイシンダヤードゥイ(石平屋取)の人たちは使わなかった。いしんだ集落の東側に圧陵があった。現在の石平交差点あたりの、リージョンクラブのE陵と米軍のヘッドコーラーのE陵のことである。もともとはlつの丘陵だったが、大正3(1914)年頃にE陵を割り取って道を造った。その道がない時代は、皆皇への街道は委答皇結けいゆふてんまを経由して普天間へとのぼって行った。岩室道だ、った。話者によあとると、現在でも石畳の跡が残っているのではないかと言う。[集落で行なわれる主な年中行事].旧暦2月2日<クスックィー(ニングヮチャー)> : 2か所に分かれて行なわれた。メ一ヤードゥイ、イリヤードゥイ、クシヤードゥイの人たちは一緒にやり、アガリヤードゥイの人は中編持の人たちと一緒にしていた。大きい屋敷を持ち回りで借りて、集まる場所にしていた。豆腐や天ぷらなどのごちそうを作って盛り合わせ、ヤマモモの花を挿していた。トゥイグヮーオーラセーもした。16歳以上からクスックイーに参加することができた。.旧暦7月<エイサー>エイサーの練習は墓の庭でしていた。当きふ日は各家を回り、酒や寄附をもらっていた。他集落へ行くことはなく、他集落のエイサーが来ることもなかった。イシンダエイサーは千原エイサーを習ったものである。せっし。うずけらん集落域は米軍に接収され、キャンプ瑞慶覧内となっている。現在の沖縄リージョンクラブの西側、国道330号線から西側一帯であきたなかぐす〈そんいしんだる。そのため、集落の人たちの多くは北中城村石平に居住している。39 -ヘッドコーラー:headquarters (軍の)司令部。-クスックィー:農繁期のあとにする骨休みの行事。-トゥイグワーオーラセー:闘鶏。-エイサー:旧暦7月の盆の夜に行なわれる行事。各集落の青年たちが行列をなして踊り、各家を回る。-千原エイサー:現在の嘉手納町域にあった千原屋取のエイサー。エイサーが有名な集落だった。・キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター):沖縄本島中部にある米海兵隊基地。《間取り調査風景》

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