北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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イシンダヤードゥイ(石平屋取)ヤードゥイだかくすくそん北谷町域東南にあった屋取集落。東側は中城村に隣接しており、その中城村の一部も含めてイシンダヤードゥイ(石平屋取)だが、中城村側と区別してチャタンイシンダ(北谷石平)と言うこともある。県議会で、チャタンイシンダ(北谷石平)とナカグスクイシンけつぎダ(中城石平)を1つにしようと決議されたが、その発行日が昭和2 0 (1945)年4月1日だったため、米軍上陸で実現しなかった。戸数26軒で、そのうちカーラヤーは6軒であった。ヤジパルヤドゥイチュンナーグヮ一ヤードゥイ(喜友名屋取)や屋宜原屋取と嫁取り婿取りがあった。イモ主業は農業で、農作物は芋やサトウキビなどを作っていた。土質はマージであった。イシンダヤードゥイ(石平屋取)は水の便が良くなくて、何か所かあった個人の井戸もヒャーイになるとi回れてしまっていた。そのため、イシンダヒージャーを集落の人みんなで利用していた。また、クシヤードゥイのサーターヤーの道をへだてて北側に共同井戸があった。フシクブと言う。話者によると、星が落ちて窪んだという言い伝えがあると言う。サーターグミは、アガリヤードゥイ、メ一ヤードゥイ、イリヤードゥイ、クシヤードゥイの4つに分かれた。サーターヤーは、アガリヤードゥイとクシヤードゥイはナカグスクイシンダ(中城石平)の人たちと共同利用していた。ガンヤーは集落の西側のEの上にあった。昭和16 "-' 1 7 (1941 "-' あだに42)年頃に作られた。それ以前は、ガンをチャタン(北谷)や安谷や屋などから借りていた。墓はアガリヤードゥイの北側あたり、屋号ンジュグヮー(伊集小): 10や屋号ナカマヌクシ(仲間ヌ後): 11の後ろの小高い正あたりにあった。イシンダヤードゥイ(石平屋取)の人たちの墓があり、マチ墓もいくつかあった。現在のアメリカ・リージョンクラブのあたりとなる。墓だったところに、現在は建物が建っている。薪取りには、屋号力ニクパルグワー(兼久原小): 20や屋号サチハずけらんさかいマツマヌメー(崎浜ヌ前): 18と瑞慶覧との境にある松林に行っていた。台風のときなどにも、風で落ちる松葉や枝を拾いに行った。ハルヤマスープはチャタンイシン夕、(北谷石平)とナカグスクイシンダ(中城石平)で一緒に行なっていた。場所はアガリヤードゥイのサーターヤーで行なわれていた。学校の運動会には、イシンダヤードゥイ(石平屋取)の人はチャタン(北谷)の選手として参加していた。馬車道が、屋号シムカタ:1のところからチャタン(北谷)の屋38 -カーラヤー:瓦ぶきの家。園屋宜原屋取:中城村(現在の北中城村)屋宜原にあった屋取集落。-マージ:赤土質の土壌。マージでできた芋は小さいが美昧しい。-ヒヤーイ:日照り。早魁。-サーターヤー:製糖小屋。-サーターグミ:製糖の作業をする組。-ガンヤー:寵を納めておく小屋。・ガン:寵。葬式のとき、死者の棺を入れて墓地まで運ぶためのもの。圃マチ墓:亀甲墓の一極墓のてっぺんにつむじの形の文様がある大きい墓。-ハルヤマスープ:耕地や農作物の優劣を競う行事。

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