北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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37東宇地原(アガリウージバル)土質方言語形はアガリウージバル〈伝道〉、ウージパル〈伝道、謝苅屋取〉。戦前はアガ利用山林、松林リウージバルとイリウージパルをあわせてウージパルと呼んでいた。松の木を切っ作物て、薪に利用していた。38西角又原(イリチヌマタバル)土質方言語形はチヌマタパル〈伝道〉。戦前はアガリチヌマタパルとイリチヌマタパルを利用山林あわせてチヌマタパルと呼んでいた。ほとんど山林で、草刈りや薪取りに行った。作物39東角又原(アガリチヌマタバル)方言語形はチヌマタバル〈伝道〉。戦前はアガリチヌマタパルとイリチヌマタパルをあわせてチヌマタパルと呼んでいた。土質利用山林作物40謝苅原(ジャーガルバル)土質ジャーガル、フェージャー方言語形はジャーガルパル〈崎門屋取、謝苅屋取〉。ジャーガルヤードゥイ(謝苅屋利用畑地、山林取)の家屋敷が広がっていた。全体が粘りけのあるジャーガル土質で、雨が降ると作物芋、サトウキビ耕作が難しかった。41 西新川原(イリアラカーバル)調査では方言語形が確認できなかった。土質利用畑地作物42東新川原(アガリアラ力一パル)調査では方言語形が確認できなかった。リンドー(伝道)の話者によれば、山林に薪を取りに入ったという。サチジヨ一ヤードゥイ(崎門屋取)では、耕地も少しあったがはげ地だったので麦畑に利用していたという。土質利用山林、畑作物麦43東上原(アガリウィバル)間取り情報なし。質用物土利作44西上原(イリウィバル)土質方言語形はイリウィーパル〈崎門屋取〉。トーバルガーから流れる小)11の周囲に回ん利用畑地、水田ぽを作っていた。戦後、米軍が士で埋めたので、地形が変わっている。作物米地籍字桑江45桑江原(クェーバル)方言語形はクェーパル〈桑江〉。クェー(桑江)の家屋敷が広がっていた。土質ジャーガル、砂地利用宅地作物46後兼久原(クシガニクパル)土質砂地方言語形はクシガニク〈桑江〉。柔らかい砂地で、良質の畑地だった。また、クェ一利用宅地、畑地ヌクシヤードウイ(桑江ヌ後屋取)の話者は、クシガニクパルという名称は、戦後作物芋、サトウキビ、落花生になって聞いたという。47小堀原(クムイパル)土質ジャーガルとニーピを混ぜたような土質方言語形はクムイグチー〈桑江、桑江ヌ後屋取)o50~100坪ぐらいの水田があった。土質はタードーシに似ているがもっとほろぼろしていた。ナーシルダ一利用水田、畑地(苗代)があった。作物米409

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