北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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大字と小字しくちょうそんあぎ日本国の行政では、土地の整理・管理・認証を行なうのに市・区・町・村・字という区ちばんおおあざ画をもうけ、地番をわりふっている。市・区・町・村の下位単位である「字」は、「大字」こあざとも呼ばれ、地番をふるための最小単位になっている。また、「字」の下位区分に「小字」があって、こちらは土地の登記手続きなど限られた場面で用いられている。この土地区画制度は明治時代にはじまる。日本本土では明治22(1889)年の市区町村制実施によって、近世期の土地制度を土台に土地区画が再編され、大字・小字という区分が設定されたが、沖縄県の場合は明治41(1908)年、沖縄県及島幌町村制の実施によって、ムラ近世琉球期の土地制度を土台とする大字と小字が設定された。大字は、近世琉球で「村」ムラと呼ばれていた行政単位をもとにしており、その「村」をより細かく区画していた「はる」が小字の設定とむすびついた。北谷村の大字北谷村内の大字の名称と区域は、明治時代に、近世琉球期の「村」の名称と区域をもとに設定され、昭和20(1945)年の沖縄戦までほとんど変わることがなかった。ちせきあざ《沖縄戦以前の北谷村の地籍字名》ちやたんたまよせでんどうくわえいれいへんぎんはまがわすなべ北谷・玉代勢・伝道・桑江・伊礼・平安山・浜川・砂辺のざとのくにやらかで(現在は嘉手納町域に含まれる宇→ 野里・野国・屋良・嘉手納)ぎょうせいあぎただし、大正初期から昭和14(1939)年頃にかけて、地籍上の大字とは別に、行政字とよばれる区画が次々に設置された。行政字は集落のまとまりをもとに設定されたもので、土地制度にかかわる編成単位というよりは、自治にかかわる集団区分の単位であり、行政組織の末端部的な機能をもっていた。《昭和15(1940)年頃の行政字名》たまうえくわまえLょうわYおりくわくし北前、北谷、玉代勢、伝道、玉上、桑前、昭和通、桑江、桑後、しもせどかみせど謝苅、桃原、伊礼、平安山、浜川|、砂辺、下勢頭、上勢頭ホンアザ行政字の設置は、住民からは本字からの分離独立と受け取られていたようである。しかし、行政字はあくまで行政上の集団区分であり、土地区画の単位としては先述の地籍字がかわらず用いられていた。地籍字の再編が行なわれたのは、昭和21(1946)年から昭和24(1949)年にかけてのことである。沖縄戦によって土地関係の公簿や地図、登記簿などが消失してしまったため、米軍政府は、昭和21(1946)年、沖縄諮詞会を通じて各村に村土地所有権委員会を設置し、地籍調査にとりかからせた。その際、北谷村では、同時に地籍字の再編も行なわれた。《再編後の地籍字名(昭和24(1949)年に確定))) おおむらたまがみいへい北前・北谷・大村・玉上・桃原・桑江・伊平・上勢頭・下勢頭・浜川・砂辺くになおかねくみずがま(現在は嘉手納町域に含まれる字→ 国直・野里・野国・兼久・水釜・嘉手納・屋良・東・久得)この20の字ごとに宇土地所有権委員会が設置され、昭和21(1946)年から昭和23(1948) 年末まで、地籍調査と測量作業が行なわれた。現在北谷町域で用いられている大字・小字の名称は、この地籍字の再編と地籍調査によって確定されたものである。402

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