北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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が、ウコールはなくなっている。|ユシミヌ力ミ|ウチヤードゥイの四隅に神様を紀ったうちの1つ。屋号サンドゥーテーラグヮー(三良平良小): 80の南西側にあった。|ユシミヌ力ミ|まつウチヤードゥイの四隅に神様を紀ったうちの1つ。ジムスの前にあった。|ユシミヌカミ|ウチヤードゥイの四間に神様を杷ったうちのlつ。屋号ミーテーラ(新平良): 106の北側に位置する。|ユシミヌカミ|ウチヤードゥイの四隅に神様を記ったうちの1つ。屋号ウクヮそばングヮーニー(御願小根): 79の側にあった。一番北側の神様である。1集会所1ft Uムス|昭和2(1927)年頃に建てられた事務所。見はらしの良い高台に位置していた。遠くは浦添ょうどれ付近までよく見えた。ジムスの西側、墓地の上にソテツが植えられていたところがあり、そこでフナウクイをしていた。那覇を出港した船は、ウカマジーのところに来ると、シーで遮られて船影が見えなくなった。法螺を吹き鳴らして、諸行事の連絡をする場所でもあった。アシビナーで行なっていたアザアシビを、昭和2(1927)年からはジムスで行なうようになった。11広場縫製|ウシモーlウシナ一、シードゥウシナーとも言う。シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)とウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)の中かね間あたりにあった闘牛場。ウシオーラセーのときには、ドラ、鉦、たいこなおうえん太鼓などを鳴らして、青年たちが応援した。ウシオーラセーをしたよきょうすもう後は、余興として沖縄相撲などをした。かんらんせきせいび話者によると、観覧席を作って、ナーとして整備したのは、明治3 0 (1897)年頃で、それ以前はモーの状態で、ウシオーラセーをしていたのではないかと言う。394 圃ウコール:御香炉。線香をたてる炉。《合間所》-浦添ょうどれ:浦添城跡北側の崖にある英祖王統と尚寧王の墓。-フナウクイ・見はらしのいい場所から、旅に出る人の安全を願い、船を見送ること。・シー:岩山。・ァザ:下勢頭屋取で言うアザ(字)は集落の意味。・アシビ:歌・三昧線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸・娯楽。牛娯言となも牛的と。統一牛伝シ闘のラ部一一村オセ農シラるウ一せ。オわ技シ闘競ウを楽う• -ナー・広場。・モー:原野。野原。原っぱ。

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