北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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だった。|力ナータケーシグヮーヌ力一|4か所ある共同井戸のうちの1つ。屋号カナータケーシグヮー(加那高江洲小): 123のところにあった。深さは21尋(31. 5 m) (30m) だった。|ウフヤガヌ力一|4か所ある共同井戸のうちの1つ。屋号ウフヤガ(大屋我): 135 の西側にあった。深さは27尋(40.5 m)で、シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)で一番深い井戸だった。-北谷尋常高等小学校:明治35(1902)年に北谷尋常小学校と野国尋常小学校の二校が合併し、平安山ヌ上屋取に開校した。昭和16 (1941)年の「国民学校令」により、学校名が国民学校へと変わった。1橋間|トゥンワタルーバシ|ちゃたん北谷国民学校前のグンドーからアカミチーカジマヤーを過ぎたところにあった。橋の手前には屋号ハシヌハタジンカグヮー(橋ヌ端くだ源河小): 44があった。アカミチーから来ると橋までは下り坂で、橋のぼを過ぎると上り坂になっていた。コンクリート製の橋になってからは、シードゥパシと言うようになった。いしづ話者によると、最近まで石積みのアーチが少し残っていたと言う。今回の現地調査のときには、石積みは残っていたものの、くずチは崩れていた。米軍がコンクリートで伸ばした跡も残っている。ー寸ア/一モ、ン内J1十字路|アカミチー力ジマヤー|こうさてん屋号アカミチチュンナー(赤道喜友名): 42前の交差点。くだこうさてんミチ、ウフサク、ダンドーへ下る道との交差点。《間取り調査風景》1製糖小屋⑬ lサーターヤー|共同製糖小屋。イチクミに7か所あったうちの1つ。屋号スイテーラグワ一(首里平良小): 11の北側にあった。使用者は屋号スイテーラグヮー(首里平良小)、屋号イリアシンミグワー(西安次嶺小)、屋号アガリアシンミグワ一(東安次嶺小)、屋号カミーサクガー(亀佐久)11)の4軒だった。維持費は使用者み389 んなで出していた。

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