北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
392/504

いんよう入植当時はトゥクガーの水を馬で、運んで、飲用していた。その後、共同井戸であるフェーヌカーやメーヌカーを掘り、大正から昭和にかけては個人の井戸が掘られるようになった。つるべかっしゃメーヌカーは、釣瓶の滑車が出てからは柱を立てて、クルマガーとなった。かでなあと嘉手納基地内に現存し、井戸の縁石には釣瓶の綱の跡を見ることができる。|フェーヌ力一|9か所ある拝所の1つ。イチクミからは、ニシヌカーと言う。谷間にあり、フェーヌ力一の頂上にはウシモーがある。話者によると、ウシモ一一帯の山の水が染み込んで、フェーヌカーに流れ込んでいるのではないかと言う。7~8尋(1O. 5 ~ 12m)ぐらいの深さで、澄み切ったきれいな水であった。井戸の右側にある角柱はウーキイシーの役目をしていた。いんよう入植当時はトゥクガーの水を馬で運んで飲用していた。その後、共同井戸であるフェーヌカーやメーヌカーが掘られた。話者によると、ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)の人たちも一緒になって井戸を作ったのではないかと言う。大正から昭和にかけては個人の井戸が掘られるようになった。スーマンボースー小満き種の大雨の時には、水は泉のように溢れ出た。乾燥した土しんすい地に浸水するほどであった。とつぜん昭和17 ~ 8 (1942 ~ 43)年頃に突然水が吹き出し、それが長い間続いていた。明治30 (1900)年代生まれの女性の方々は、18歳ごろまでフェーヌカーで水を汲んでいたという。しゆっせいカーウガミは旧暦9月9日に行なっていた。また、出征する前におがもフェーヌカーを拝んでいた。かでなげんそんつるべ嘉手納基地内に、原形のままで現存しており、井戸の縁石に釣瓶あとの綱の跡を見ることができる。|シチャバルグヮーヌ力一|4か所あった共同井戸のうちの1つ。屋号ウファカニー(御墓根): 71の後ろにあった。石固いされた大きいガジマルの北側、2~3m離れたところにあった。深さは22尋(33m)だった。かでな現在は嘉手納基地内で、ガジマルはあるが、井戸は残っていない。|ゥィーヌハナクoシクヌ力一|4か所あった共同井戸のうちの1つ。屋号イーヌハナグシク(土ヌ花城): 109の北側、サーターヤーの側にあった。深さは20尋388 《メーヌカー》-クルマガー:滑車につるべ縄をかけて水を汲む井戸。・嘉手納基地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。-ウーキイシー:桶を頭に載せるための台。《フェーヌカー〉-小満竺種:沖縄で雨の多い季節。梅雨期。5月中旬~6月下旬頃を言う。-力一ウガミ:井戸の神様を拝む。-嘉手納墓地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。《シチヤパルグヮーヌカー》

元のページ  ../index.html#392

このブックを見る