北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
387/504

11郡道|グンド-1ソンド一、ウフミチとも言う。メーヌハルーの人たちは、この道とおを通って学校に行くので、ガッコーミチと言っていた。ちゃたんそ1;:北谷国民学校の側が起点となり、そこからアカミチーヌフィラまのぼでは上りであった。さらに進み、トゥンワタルーバシからグンドー沿いにある墓1基まで上り坂であった。そこからウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)の屋号コーチョージキラン(校長瑞慶覧)のへいたんくだところまでは平坦だった。少し下り気昧でウクマガイへ行き、クンノーイカジマヤーまでは上り気味となる。ほloうLゅうか〈グンドーの補修工事は、サトウキビの収穫時期に入る前の11月たんとうはんい頃に集落単位で行なっていた。年に1~ 2回ほどあり、担当範囲はシチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)とハンジャヌウィーヤーきょうかいドゥイ(平安山ヌ上屋取)の境界の道からアシビナーミチズ日までだった。一世帯から13歳以上の者が1人出て、イシグーを敷きなにっとうせんらす作業を2~3日かけて行なった。日当が30銭ぐらいもらえた。グンドー沿いの屋号シチャヌハナグシク(下ヌ花城): 96屋敷前で綱引きが行なわれていた。かでな現在の嘉手納基地ゲート1からゲート2につながる道とほぼ一致している。→上勢頭屋取のウクマガイを見よ。|ア力ミチー|シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)とハンジャヌウィ一ヤードゥイ(平安山ヌ上屋取)の境からアカミチー力ジマヤーまでの道。しあヵ、っちふイシグーは敷かれておらず、赤土のままであった。雨が降るとよくすべ滑った。1馬車道ウチヤードゥイミチ|ウチヤードゥイの中を通る道。グンド一沿いの屋号ウフミチパタハナグシク(大道端花城): 103から北へ向かい、屋号ウグワングヮーニー(御願小根): 79の前を通り、ウィーヒングヮーへ行く道。とお馬車も通ることができた。lウシモーミチ|ウシナーミチとも言う。毎日、集落から牛を引っ張って行く道。2か戸庁あるうちの1つ。グンドーからアカミチカジマヤーを右に折れ、ウシモーへ行く道である。383 -北谷尋常高等小学校:明治35 (1902)年に北谷尋常小学校と野国尋常小学校の二校が合併し、平安山ヌ上屋取に開校した。昭和16 (1941)年の「国民学校令Jにより、学校名が国民学校へと変わった。圃クンノーイカジマヤー:現在の嘉手納町域にあった国直屋取にあった十字路。-ィシグー:さんご礁などを砕いた細かい砂利。-嘉手納基地:沖縄本島中部にある極東最大の米空軍基地。《現地調査・嘉手納墓地内》

元のページ  ../index.html#387

このブックを見る