北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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|ウチヤードゥイ|内屋取。ジムスが位置する集落の真ん中あたりである。シードウバシの東方~屋号ミーテーラ(新平良): 106 '"アシビナー~屋号サンドゥーテーラグヮー(三良平良小): 80の近くのマヤージ一一帯のの村立てをしたと言わ(下勢頭屋取)イゥにドヤるウあドがう一家言シ鮎川をヤ〈久軒チさ佐7シる3れ|シチャバルグヮー|下原小。ウチヤードゥイの西側、ウカマジーの東側一帯である。シチャバルクーワーミチ沿いの屋号ウクパル(奥原): 82からチュンナーダヮ一ヤードゥイ(喜友名小屋取)寄りの屋号シェークーチュ(細工喜友名): 62あたりまでの20軒を言う。ンナー|ウィーヒングヮー|上辺小。アシビナージーの西側である。屋号ンートーチユンナー(武戸喜友名): 75他、17軒を言う。地形的に一段高くなっている。同じヨンクミのシチャバルク。ワーは一段低くなっていたので、下の組が上の組をウィーヒングヮーと言っていた。|ニシバルグヮー|北原小。集落の一番北側で、アシビナージーの北側に位置する6《間取り調査風景〉フィラ力一ジーの北側に位置軒を言う。|ヤガグヮ一ヤードゥイ|屋我小屋取。集落の北東はずれで、やがする屋我姓の7軒を言う。1;iiJ) 11 トゥクガー|9か所ある拝所の1つ。イリー(伊礼)とハンザン(平安山)の聞を流れていた川。ナガサンニーとも言う。ハンザン(平安山)やハマガ-(浜)11)の集落からは距離的に遠いので、一番トゥクガーを利用していたのは、2kmぐらいの距離だったシチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)であった。いんよう入植当時はトゥクガーの水を馬で運んで飲用していた。その後、共同井戸であるフヱーヌカーやメーヌ力ーを掘り、大正から昭和にかけては個人の井戸が掘られるようになった。381

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