北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)ヤードゥイ北谷町域北側一帯に広がる屋取集落。戸数は135軒で、そのうさくがわちカーラヤーは40軒ほどであった。最初の入植者である佐久川家あざの名を取って、サ夕方、一ヤードゥイと言うこともある。字浜川|に属していたが、大正9(1920)年に分離独立し、下勢頭区となった。農業を中心とした比較的裕福な集落で、闘牛やアシビなどで有名だった。屋号スズキ(鈴木)にはラジオがあった。集落の組分けはイチクミ、ニクミ、サンクミ、ヨンクミの4つに分かれていた。綱引きには、南側のイチクミとニクミがメーンダカリ、北側のサンクミとヨンクミがクシンダカリの2つに分かれた。入植当初は卜ゥクガーから馬で水を運んでいた。その後、メーヌ力一、フェーヌカーを掘り、共同使用していた。大正~昭和時代にかけて、各家に井戸を掘るようになった。水の出が異なるので、それぞれ掘る深さが違い、ウフサク周辺は7~8尋(1O. 5 ~ 12m)、ウチヤードゥイ周辺は地盤が高いので36~38m掘った。季節によっても水の深さは変わった。カージナは寄り集まってチナウチをして、各自のものを使っていた。スルガージナと言う。また、水タンクがイチクミー2基、ニクミ-6基、ヨンクミー3基あった。屋根がかやかわら茅ぶきから瓦ぶきに代わり始めたのは、大正時代に入ってからで、せっちその後、昭和10 (1935)年代からタンクが設置された。水対策のほじよきんしょうれい一環として、各市町村が70円の補助金を出して奨励していたが、個人には出ないので、何名かで共同名義にしていた。サーターヤーがイチクミー7か所、ニクミ-4か所、サンクミ-3 か所、ヨンクミー5か所あった。血縁中心、あるいは隣近所で組を作っていた。サトウキビを絞るクルマナーと、その絞った汁を炊く小屋があった。クルマナーには鉄輪のクルマが3個組まれ、中心のクルマに付けられた10mほどの丸太の端を、馬が引っ張ってクルマを回した。そのクルマの間にサトウキビを挟みこんで絞る。絞みぞとおかまどられたキビ汁は小さな溝を通り、小屋の中にある竃の上の丸鍋に流せつれる仕組みになっていた。溜まったキビ汁は角鍋に移し、少量の石灰を入れて煮詰める。煮詰まった砂糖汁は更に冷やし用小鍋に入れ、棒でかきまわし、これを冷やして樽に詰めた。樽10斤(6k g)、樽の蓋5斤(3k g)、砂糖120斤(72kg)の1丁135斤(81kg)の黒糖の製品が出来た。砂糖を製造する時期をサータージーと言う。3月末になり、製糖が終わった農家では、ごちそうを作って、親戚や一緒に働いた人々とシースビーの喜びにひたった。昭和1 2 ~ 1 3 (1937 ~ 38)年頃、イシアナーの南側に製糖工場があはつどうきヌザトゥり、発動機と呼んでいた。2~3年後、野里の方に移った。ガンヤーはウカマジーの東側に位置していた。ガンをコ一、ンマ、376 -カーラヤー:瓦ぶきの家。-アシビ:歌・三味線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸・娯楽。買「・E司・・・・・・・・・咽骨ii',--'JIo._iL1f'.田瞳I可司司-開・回・・・・哩.. E弘T盤盟-置f\おじ~E~l哩-重工'竃壇画・掴.~~"."・.Jt..J E~聖り唱厄函圃園圃・・....... 羽.-久r..,逼圃・《フェーヌカー》-カージナ:井戸の縄。・チナウチ・綱(縄)を絢うこと。・スルガージナ:シュロで作った縄。-サーターヤー:製糖小屋。-クルマナー:サトウキピを圧搾する装置を据えた広場。・クルマ:サトウキピを圧搾する装置。-サータージー:砂糖を製糖する時期。-シースビー:行事や作業を無事に終えること。・野望:現在の嘉手納町域にあった集落。野里馬場があった。・ガンヤー:寵を納めておく小屋。

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