北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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|ウシモーミチ|「北側(中央)の招待席の背後には、牛毛道とよばれる白い道が上勢頭から下勢頭に向かつて走っていた。闘牛のある日には、道の両側に俄か露天商が立ち並び、ジーマーミ、ミ、タンナファクルー、アップリグヮ一、ていんぷらーケーキ一、冷たい飲み物等々が売られ、ずいぶんと賑わいを見せていた。J(~上勢頭字誌・上巻』より引用)そのハチャグアイスミカン、(桑江)に近|ウドゥンジーミチlウドゥンジーグミのあたりを東西に通る道。いほうをナルカーミチとも言う。ちゃたんあいだぬ現在の県立北谷高等学校と北谷ゴルフ練習場の聞を抜けて、クェー(桑江)へと続いていた。ェク11生活道|力一ミチ|ウシモーミチからフェーヌ力一に向かつて分岐した道。《現地調査・嘉手納基地内》i坂道1クヮシチャヌクシビラ|「小橋川家の後の坂道。ミンタマヤーミチの南端。J(~北谷町史・民俗下』より引用)|ミンタマヤービラlミンタマヤーから北に向けてのぼっていく坂道。クシビラとも言う。昭和12 ~ 1 3 (1937 ~ 38)年頃にウィーシーそうでほLゆっドゥヤードゥイ(上勢頭屋取)の人たち総出で道の補修をした。そとおかいりょっれまでは傾斜が急だったので馬車は通れなかったが、この改良によって馬車が通れるようになった。クヮシチャヌ~トロッコ軌道トゥルクミチ|圃圏直:現在の嘉手納町域にあった屋取集落0・嘉手納製糖工場:沖縄製糖株式会社の嘉手納工場のこと。明治45(1912)年創業。・嘉手納農林学校:沖縄県立農林学校。国頭農学校がその前身。大正3(1916)年に嘉手納に移設された。サトウキビを運ぶために使われたトロッコ軌道。国直を経由しかでなのう0んて嘉手納の製糖工場に向かう。製糟工場は、戦前の嘉手納農林学校、現在の町立嘉手納中学校の近くにあった。おっぶ話者によると、この道の近くで、石に押し潰されて亡くなった人幽霊やイニンビーが出るという話があったと言う。がいて、-ィニンビー.ひとだま。死者の遺念が火となって現れるとされるもの。360

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