北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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|ンナンミグミ|稲嶺組。集落の組分けの1つ。18軒あった。|ウィーバルグミ|上原組。集落の組分けのlつ。23軒あった。あざ戦後、上勢頭の行政区に加わった。戦前は宇野里に属していて、チヤングミ(喜屋武組)と呼ばれていた。「現在の嘉手納町在宇野里から分離。野里には上の原、中の原、下の原があり、上勢頭の行政区分のとき、「上の原」の地名をとって上原組となる。ー略ー戦後の昭和二十三年頃、稲嶺組に加入した。た。そして昭和六十年頃に「上原組」として独立し、現在に至る。/戦前は「ヒージャーバル」とも呼ばれていた。J(~上勢頭誌・上巻』より引用)い11ウクマガイ|ウィーバルクfミに近いところを流れていた川。ウクマガイバシかちゃたんそんごえくそんきょっかいが架かっていた。北谷村と越来村の境界になっていた。流れはヌザトゥそそ野里の後ろを流れて、海に注いでいた。「イシジャク池より西の方にある溝(雨降りには川になる)が、上勢頭上原組の北側のウクマガイである。ー略橋の上から西の上下の方を見ると、曲がりくねった大きな溝の所々に、水たまりとなった大小の池がある感じの川である。橋の下には敷石をつめ洗濯場として利用された。大きな池は水浴場、下方は牛、馬の水浴び場となっていた。/池の下方は幅の広い川底になり、両側は高い崖になっているが、その崖下には大きな松の木等も生えていた。左側の崖の上には小高い丘がある。その西側の麓に上原組のビジュル(拝所)がある。そこから約五百メートルくらい川下の方に行くと、ほとんど直角に左に曲がり、また一五0メートル位行くと、直角に右に曲がっていく。この場所を曲(マガイ)という。そこから野里部落の後方に流れ、そして野国川に注ぐ。ウクマガイは下方に行くに連れて曲折した流れとなり、この蛇行する流れのことをウクマガイとよんだ。J(~上勢頭字誌・上巻』より引用)1山地!シードゥヌシー|ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)集落の境界とされていた岩山。ヒラ力一ジ一、ナーカヌシ一、イリヌシーの3つの岩山が並び立っていた。その麓には墓がたくさんあった。358 《ウクマガイハシ》

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