北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)ヤードゥイ北谷町域北東部一帯に広がる屋取集落。戸数は220軒で、そのうちカーラヤーは20軒ほどであった。ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)は、主に血縁的つながくみりで小集落に分かれており、それらを「組」と呼んでいた。ウィーバルクーミ、タナカグミ、ンナンミグミ、ジキラングミ、マチダグミ、ユナファグミ、チュンナーグミ、メーカッチンダミ、クシカッチングミ、ウドゥンジーグミの10組である。「組」は昭和に入ってから使うようになった呼び方で、それ以前は「ジキランヤードゥイ」のように「ヤードゥイ」と呼んでいた。ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)は首里・那覇・泊・久的しぞくにゅうしょくヤードゥイ米の士族が入植してできた屋取集落で、その入植時期は約200年ほど前と考えられる。近世期から近代にかけてはシチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)と合わせて「勢頭七組」と称されていた。「勢頭七組」とは田仲組・稲嶺組・瑞慶覧組・与那覇組・喜友名あざ組・勝連組と、サクガ一ヤードゥイ(佐久川屋取)である。字浜川、ぶんさん字伊礼、字平安山、字桑江に分散して広がっていた。大正10 ぎょうせいあざ(1921)年、「勢頭七組」は土勢頭・下勢頭の行政字として、それあざウドゥンジぞれ独立し、区長がおかれた。このとき字桑江に属していた御殿地ヤードゥイ屋取がウドゥンジーグミとして加わった。しかし、行政字としてのあざ上勢頭が成立したあとも、地籍は字伊礼、字平安山、字桑江のままだった。地籍字として成立するのは昭和26 (1951)年の土地所有力ッチングミ権確認事業を経てからである。昭和10 (1935)年頃、勝連組がメーカッチングミとクシカッチングミに分かれた。同じ時期に与那覇ヤードゥイジyチヤクグミ屋取から勢理客組が分離した。その後の昭和12'"1 3 (1937 '" 38)年頃に勢理客組はマチダグミに名称を改めた。昭和26 (1951)年には、行政字国直(地籍字は野里)に属していた毒崖武グミ組がンナンミグミに加わり、昭和60 (1985)年に再びンナンミグぷんりミから分離して、ウィーバルクーミに名称を改めた。イモ主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。副業でカマンタやパーキなど竹細工の生産が行なわれており、それらは仲買業者や行Lようにんなはヤンパルl,.っか商人によって買い取られ、那覇や山原に出荷された。特にカマンタは、近隣集落からシードゥカマンタと称されるほど有名だった。しんせきサーターヤーは、各組に1"'3か所、総計で12か所あり、親戚関係のある家で共同使用していた。個人所有のサーターヤーも4か所あった。また、それぞれのサーターヤーにはクムイがついていた。おがはいしょ集落全体で拝む拝所はなかったが、ンナンミグミのビジュル、ウィーバルク。ミのビジュルのように、「組」単位で拝む場所はあった。水タンクが20基ほどあった。「天水を大量に生活用水として利350 -カーラヤー:瓦ぶきの家。《関取り調査風景》-サクガ一ヤードゥイ:シチャシードゥヤードゥイ(下勢頭屋取)のこと。最初の入植者である佐久川家の名を取って、サクガ一ヤードゥイとも言う。-ヵマンタ:大なべのふた。茅-藁などを編んで作る。・パーキ:ざる。かご。・山原(ヤンパル):沖縄本島北部、国頭郡の俗称。圃サーターヤー:製糖小屋。-クムイ:池。沼。-ビジュル:霊石として租られる石。

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