北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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とうひょうはつけt、ために各戸で新聞を取って投票運動をしたが、八景には選ばれなかったと言う。かでなぐんじきょうれん戦時中は、青年学校や嘉手納農林学校の生徒が軍事教練に使っていた。1広場轡|アシビナー|屋号メーリンドー(前林堂): 34の南側の広場。ムラアシビを行:なう場所で、芝居の舞台を作るときの礎石があった。ホーヤーガジマルが生えており、子どもたちの遊び場所だった。すなベくこうみんかんちmヲしゃじよう現在の砂辺区公民館の駐車場あたりである。|ウフ力一二一モ-1ンブガーの上はモーになっていて、ウフ力一二一モーと呼ばれていた。近くに帽子クマーのヤードゥがあったので、帽子編みの作業が終わると若者たちがウフ力一二一モーに集まってモーアシビをしていた。|アガリジョーモ-1屋号アガリジョー(東門): 49の南側にあった広場。旧暦8月9日のカンカーのときに、牛を屠殺した場所の1つ。|ウシモー|イリナカチンジュのサーターヤーの西側にあり、力チラに面していた。牛や馬に水浴びさせたあとなどに、このモーに放って遊ばせていた。屋号ミーガーグワ一(ミーガー小)は牛を2~3頭飼っていて、よくウシモーで遊ばせていた。シナビ(砂辺)ではアガリジョーモーとウシモーの2か所でカンカーの祈願を行なっていた。カンカーはもとは2月と8月の年2回行なっていたが、昭和初期には、年1回、8月9日にだけ行なうようになっていた。1獅子屋舎|シーシヤー|獅子舞の獅子を納める小屋。屋号ウフティーラ(大照屋): 48の南側にあった。屋根は赤瓦で、壁は杉板でできていた。あんち普段、獅子は箱におさめられて、シーシヤーに安置されていた。ジューグヤ旧暦7月17日のシーシヌウグワンや、旧暦8月15日の十五夜のときに獅子舞を舞う。342 -嘉手納農林学校:沖縄県立農学校。国頭農学校がその前身。大正3(1916)年に嘉手納に移設された。-ムラアシビ・歌・三味線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸・娯楽。-モー:原里子。野原。原っば。-帽子クマーアダンの葉やこよりで帽子を作る内職。-ヤードゥ:一時的に集会所にあてられる家。-モーアシビ.農村で夜、若い男女が野原に出て遊ぶこと。三味線・歌・踊りなどをして楽しむ。-カンカー:集落に悪疫が入ってくるのを妨ぐための行事。-モー:原野。野原。原っぱ。-カンカー:集落に悪疫が入ってくるのを防ぐための行事。当拍巨費』踊《シーシヤー》

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