北谷町の地名 -戦前の北谷の姿-
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シナビ(砂辺)集落のニガンを把っている拝所。ほとんどの行事きがんの祈願はウカミヤーで行なわれる。屋号ニードゥクル(根所):51の敷地内に別棟の建物として建てられていた。現在でも、屋号ニードゥクル(根所)の敷地内にあり、赤瓦屋根の大きな屋敷となっている。|ニードゥクル|クシムイの西側に隣接している家の屋号。屋号ニードゥクル(根所): 51のことである。敷地内にはウカミヤーがある。シーシヌウグワンのときの獅子舞などもここが出立点となる。Lゆっせいへいしおが出征兵士たちはここに立ち寄り、拝んでから出立した。集落の南西側にあった馬場。17本位の立派な松があり、そのうち一番東側にあった古い松は特にホーヤーマーチと呼ばれていたが、現在ある松はすべて戦後のものである。北側にはンマイームイと言うEが隣接していた。その東側斜面にはたくさんのソテツが生えていた。ンマイーでは、旧暦l月20日にンマスープが行なわれていた。ウィーシードゥヤードゥイ(上勢頭屋取)、シチャシードゥヤードゥぎのわんそんごえ〈そんイ(下勢頭屋取)、宜野湾村、越来村などから出場馬が集まった。馬はきれいに飾られていて、どれくらい美しい足並みで走れるかを競い、速さよりも美しさが重視された。馬は北側のムイの麓から出発かんして南のほうに向かつて走った。観客はンマイームイから競争を観せん戦していた。旧暦4月にはアブシバレーを行なった。ンマイーの浜から、芭蕉で、作った虫かごに入れたへンサー(カメムシの一種)を海に流した。旧暦8月15日から3日間行なわれるムラアシビの初日は、ンマイーでシーシマーシや「長者の大主Jなどが演じられた。昭和6(1931)年頃から、辻遊郭の遊女たちゃ那覇の小学生が、汽車に乗ってンマイーまで遠足に来るようになった。ンマイーの浜で潮干狩りをしたり、リレーなど運動会のようなことをして遊んいとまんでいた。また、糸満の漁船が沖に船を停泊させて、ンマイーの浜に上がって休憩することもあった。おきなわはっけい話者によると、昭和11 (1936)年頃、新聞社が沖縄八景を決める投票を開催したので、シナビ(砂辺)でも投票用紙を手に入れる341 -ニガン・集落の神宮。ニガンのいる家をニードゥクルと言う《ウカミヤー》-ンマスープ:罵の飾りや歩き方の美しさを競う。-アブシバレー:旧暦4月頃に行なわれる害虫よけの行事。-ムラアシビ・歌・三昧線・踊りなどを楽しむこと。また、村芝居・祭りなど、仕事を休んで行なう演芸・娯楽。・シーシマーシ:獅子舞。・長者の大主:集落の行事のなかで演じられる祝儀舞踊。

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